*ミントの人物伝その35−1[第257歩・曇]

足利将軍の中で一番人気があるのが
この人物かもしれません。


ミントの人物伝(その35−1)


足利義輝(あしかがよしてる、1536-1565)  
室町幕府第13代将軍。


1536年(天文5年)、第12代将軍である足利義晴の嫡男として生まれる。
かつては守護大名の上に君臨していた足利将軍家だったが
応仁の乱以降の戦乱で、この頃にはその権威は完全に落ちてしまっていた。


義晴は管領細川晴元と対立しては、その都度敗れていた。
義輝は父とともに、近江坂本や朽木への脱出を繰り返したという。
将軍がたびたび京を追われるのだから
名ばかりの将軍といわれても仕方がないだろう。


「お前が将軍になりなさい」
1546年(天文15年)、義輝は父から将軍職を譲り受ける。まだ11歳だ。
義晴は、自分にない資質・可能性を、わが子に見つけ出していたのかもしれない。
やがて義晴、義輝は細川晴元と和解し京に戻る。


1550年(天文19年)に義晴が死去する。
1553年(天文22年)細川氏綱三好長慶細川晴元とが管領職をめぐって
争いを始めた。
細川晴元とともに戦った義輝は、敗れて近江朽木に逃れた。
以後5年間この地で過ごした。


−わしは強くなるぞ−
彼は剣術を学び始める。
鹿島新当流塚原卜伝(つかはらぼくでん)には奥義「一の太刀」を授けられ
『剣豪将軍』と呼ばれるようになる。
後年には
新陰流の上泉信綱(こういずみのぶつな)に師事して免許皆伝を得たというから
余程の腕前だったのだろう。


なぜ義輝はこんなに剣術にのめり込んだのだろう。
実際の戦闘では軍隊が戦うのだから、将軍個人が強くても仕方がない話だ。


実は彼には強力な軍隊がなかったのである。


室町幕府初代将軍の足利尊氏は非常に気前が良く、諸大名に恩賞として大きな領土を与えた。
そのため、将軍家直属の領土や軍隊が相対的に小さくなり、時と共にますますこの傾向が進んだ。
この頃には足利将軍家は、自分の領地や軍隊をほとんど持っていなかったのだ。


義輝は「せめて自分の身は自分で守ろう」と考えたのかもしれない。


(続く)