*ミントの人物伝その53−1[第367歩]

大久保彦左衛門の名で知られる大久保忠教(ただたか)はこう言いました。
「戦場で一番乗りの功名を立てることは武士の願うところだが
それがしは常に彼にはかなわなかった」と。


ミントの人物伝(その53−1)


本多忠勝(ほんだただかつ、1548−1610)

戦国末期から江戸初期の武将。


1548年(天文17年)三河国額田郡
徳川家康の家臣、本多忠高の子として生まれる。
別名は平八郎。
本多家は徳川家譜代の臣であり、
三河中でも最古参の家柄である。
ちなみに家康の謀臣、本多正信
先祖を一にする同族だ。


1560年(永禄3年)忠勝13歳。
家康の大高城兵糧入れに従軍する。
これが彼の初陣となった。
「大小の戦五十七度、ついに一度の不覚なし。又ついに一所の手傷も負わず」
といわれた彼の戦歴の始まりである。


1562年(永禄5年)忠勝が15歳になったときのこと。
今川氏真の武将の小原備前守が、駿河から三河に押し寄せてきた。
家康は織田信長と同盟関係にあるので、当然これと戦った。


戦場で叔父の忠真が敵を突き倒して、忠勝に言った。
「平八郎、その首を取れ」
すると忠勝は
「どうして人の力を借りて手柄を挙げることが出来ましょうか」
こう言って敵陣に突き入って、本当に首級を挙げてしまった。
周りの武将はこれを見て、忠勝は只者ではない、と感心したという。


忠勝は生来腕力が強かった。
彼の愛用の槍は蜻蛉切(とんぼきり)』
長さが二丈(約6m)もあり、柄が太く青貝をちりばめたものだが
蜻蛉がその槍の穂先にとまった途端に、二つに切れたというのでこの愛称がある。
この大きく重い名槍を、彼は片手で振り回して戦った。
また兜は『鹿角脇立兜』
これは鹿の角をあしらっており、何枚もの和紙を張り合わせ黒漆で塗り固めたものだ。
そして彼は不敵な面構えで眼光も鋭かった。
彼が馬上で蜻蛉切をふりかざすと、敵はその威に恐れ入ったらしい。


1563年(永禄6年)三河一向一揆が起こる。
本多一族でも大多数が領主である家康に敵対した。
しかし忠勝は、浄土宗に改宗して家康側に残って戦い、大いに武功を挙げる。


思うに忠勝は、6歳年長の家康を兄のように敬愛していたのかもしれない。
彼の家康に対する忠義心は生涯貫かれることになる。


1566年(永禄9年)には旗本先手役に抜擢される。
19歳にして与力を50人指揮する立場になったのである。


1570年(元亀元年)姉川の戦いのときは奮戦した。
信長の軍勢が浅井勢に切り立てられているところに突入し、抜群の武功をあらわした。
また、家康軍に迫る朝倉義景の軍勢1万人に対しては、無謀とも思える単騎駆けを行なった。
忠勝を見殺しにするな、と家康軍は反撃し、それが朝倉軍を打ち負かすきっかけとなった。


1572年(元亀3年)武田信玄との三方ヶ原の戦いがあった。
その前哨戦である一言坂の戦いにおいても、徳川軍は負け戦だったが
彼は困難といわれる殿(しんがり)を勤め、敵と味方の間に馬を乗り入れて
追撃してくる武田軍をよく防いだ。
その様子を見た武田軍でも評判になり、ついには
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(からのかしら)と本多平八
と歌に詠まれ落書きされるほどであった。


三方ヶ原、長篠の戦いでも忠勝は大いに活躍、敵味方を問わずに賞賛された。
忠勝は確かに強かったが、つねに冷静に戦局をよく見極めていた。
それが『ついに一度の不覚なし』という結果になったのだろう。


榊原康政
井伊直政
酒井忠次
本多忠勝


この4人は徳川四天王と呼ばれ称えられたが、忠勝が一番強い武将だったと思う。


信長が明智光秀に本能寺で弑(しい)されたあとは
「海道一の弓取り」をめざす家康は、羽柴秀吉との対立を次第に深めてゆく。


(続く)


(参考文献)
Wikipedia
「徳川家臣団」(綱淵謙錠)他
画像はWikipedia から借用しました。



[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230