*ミントの人物伝その59−3[第424歩]

リヴィングストンの探検では、原住民たちとの親密な人間関係を大事にしました。
なので原住民たちも彼を父のように慕いました。


ミントの人物伝(その59−3)


地図(かなり不正確で見づらいですがご了解下さい)


1854年9月、リヴィングストンルアンダを発ちリンヤンテに向かう。


1年後リンヤンテ着、水路を求め引き続き東へ。
セケレトゥ率いるマコロロ人たちも一緒だった。


1855年11月、ザンベジ川をたどってゆくと
轟音が響き渡り、水煙を立てている箇所にさしかかった。


「滝だ!それも途方もなく大きな・・」


リヴィングストンは、原住民たちからうわさで聞いていた自然の驚異を目前にして
立ち尽くした。
あまりに大量の水が落ちるので、滝から水煙が立ち上っている様子はまさに壮観だ。


ヴィクトリア滝


最大落差が108 m、幅が 1,708 mにおよぶこの巨大な滝を
現地ではモーシ・オワ・トゥーニャと呼んでいたが
リヴィングストンは西洋風の名前を付けたいと考えた。
そこで当時のイギリス女王にちなんで『ヴィクトリア滝』と名付けたのである。


1856年5月、苦労の末、一行は東海岸ケリマネに到着する。
ルアンダからじつに4千5百キロの距離を踏破したことになり
もちろん前人未到の快挙だった。


ここでリヴィングストンは、マコロロ人たちに再会を約束してケリマネに残し
イギリスに一旦帰国することにした。


リヴィングストンは家族のことも気になっていたし
伝道協会にこれまでの報告をしたかったのだのである。
彼は協会からその成果を賞賛され、一定の資金援助を受けていたが
探検自体についてはあまりに費用がかかりすぎる、と疑問視されていた。


1856年の暮れ、リヴィングストンは15年ぶりに帰国した。
そして熱狂的な歓迎をうけることになる。


講演の依頼が殺到し、探検記が出版されベストセラーに。
その印税は探検費用としてじつに有難いものとなった。


ロンドン名誉市民となり、グラスゴー大学名誉学位を受ける。


ついにリヴィングストンはヴィクトリア女王にも謁見を賜った。
その際、彼は奴隷貿易の根絶を訴えたという。


栄光に包まれた時期だったが、彼はいつもアフリカのことを考えていた。
翌年には早速、『ザンベジ川探検隊』を結成し、再渡航の準備を整えたのだった。


続く)



[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230



コメントは、ブログ運営者(ミント)が確認後に公開されますので
よろしくお願いします。