*ミントの人物伝その11[第177歩・曇]

今回はメジャーリーグ・ベースボール(MLB)の選手の話です。


ミントの人物伝(その11)
ルー・ゲーリック(1903-1941)
MLBの大打者。
左投左打の一塁手ニューヨーク州出身。
2130試合連続出場の記録を作る。


<主な記録>
首位打者  1934年
本塁打王  1931年、1934年、1936年
打点王   1927年、1928年、1930年、1931年、1934年
三冠王  1934年)
MVP   1927年、1936年
通算記録
打率    .340
本塁打   493本
打点    1995
 


ゲーリックはヤンキースの第一期黄金時代のメンバーだった。
3番ベーブ・ルース、4番ゲーリックの打線は「殺人打線」と呼ばれ、相手チームに恐れられた。


1925年6月1日、21歳のゲーリックは代打としてメジャーデビューする。
これがそれから14年間に及ぶ連続試合出場記録の始まりだった。
翌2日、名手ウォーリー・ピップが頭痛のため欠場、ゲーリックがスタメンとなる。
この試合でゲーリックは活躍し、以降レギュラーをはずされることはなかった。
この年、打率.295、20HR、68打点の成績を残す。


2130試合の連続出場という記録は
1987年に衣笠祥雄
1995年にカール・リプケンに抜かれたが、永くMLBの記録だった。


打席でヘルメットを着用しない時代である。
なのに彼は、頭部に死球を受けても、指を骨折しても休まなかった。
人は彼をアイアン・ホース(鋼の馬、はがねのうま)と呼んだ。


MLBで連続出場することは大変である。
試合数も多いし、長距離移動で体力を消耗する。
疲れると当然成績にも影響する。
当時でも連続出場する選手は数多くはなかったはずである。
なぜゲーリックは休まなかったのだろうか。


ゲーリックは、少年時代から野球の才能を注目されてはいたが、
もともと家は貧しくて、母親は苦労して彼を育てている。
あこがれのヤンキースに入団は出来たが、一軍はレギュラーの層が厚く
最初の2年間は二軍生活をおくっている。
親孝行をしたい彼は
どうしても成功したい気持ちが人一倍強かったのではないか、と思う。


それと自分が休むと別の選手が出場することになる。
かつて自分がピップからスタメンを奪ったように、今度は自分の出番がなくなるかも知れない。
そのような不安感があったかも知れない。


このように求道者的な姿勢と、もともと内向的な性格であることから
人間ぎらいと思われていた時期もあった。
ベーブ・ルースが陽性なのに対し、彼は物静かで暗い印象があるが
1933年、エレノアと結婚してからは性格も明るくなったといわれる。


彼はルースやジョー・ディマジオとクリーンナップを組み
ヤンキースの全盛期を築き、輝かしい成績を残してゆく。


長距離打者であり、また非常に勝負強かった。
彼は17年間で1995打点を挙げているが、出場した試合数は2164なので
ほとんどの試合で打点を稼いだことになる。
1931年の1シーズン184打点(155試合)、通算23本の満塁本塁打は驚異的な記録である。


1934年には三冠王首位打者本塁打王打点王)を獲得している。
首位打者はこの年、一回のみであるが
彼が連続出場にこだわらず、休養をしながらプレーすれば
首位打者のタイトルをもっと獲得でき、複数回の三冠王になっていたかも知れない。


ヤンキースの主軸として永く活躍してきた彼だったが
1938年シーズン半ばから成績が低下をはじめた。
この年は.295、29HR、114打点だったが、あきらかに身体に異変が発生していた。


1939年はシーズン当初から満足なプレーが出来ず打率も低迷する。
ついに5月2日、ゲーリック自ら監督に出場しないことを伝えた。
そのとき彼はこう言った。
「自分がどんなに駄目か、どれだけチームに迷惑をかけているか
誰も自分に教えてくれない。だから自分で決めるしかない」
と。
そしてその後引退するまで試合に出場することはなかった。


ゲーリックはALS(筋萎縮性側索硬化症と診断される。
現代でも難病であり、当時は2、3年で死亡すると言われていた。
彼が難病に冒されていることはニュースとなり広まってしまった。


7月4日、ヤンキースはゲーリックの引退試合を行なった。
6万2000人もファンが集まったという。
ルースなどかつての同僚も駆けつけスピーチをする。
このあとゲーリックは感動的な挨拶を行なうのである。
「私は地上で最も幸せな男です」と。



ルースも、監督も、チームの同僚も
そしてヤンキースタジアムのファンも全員が泣いた。
ゲーリックが不治の難病にかかっていることを
おそらく皆が知っていたからだ。


ゲーリックはその後、歩けなくなるまで仮釈放委員会の委員をしていたが
病状が悪化し
1941年6月2日、37歳で死去する。
奇しくもピップからレギュラーを奪い取った日から16年目だった。
野球殿堂入りが決定し
彼の背番号4は史上初の永久欠番になった。


彼の野球に対する真摯な姿勢は
現在でもMLBの選手やファンの心をつかんでいる。


(参考文献)
 Wikipedia
 写真はWebから借用しました。


***最近読んだ本***


黒衣の宰相(火坂雅志
徳川家康の知恵袋として「武家諸法度」などの法典を起草した金地院崇伝の生涯を描く。
「国家安康、君臣豊楽」の文言にいいがかりをつけて
大阪の陣の開戦の口実をひねりだした悪名高い僧侶でもある。
非常に面白く読んだ。


脊振山

(マロンさんより借用しました)