*ミントの人物伝その20[第196歩・曇]

今日から15日間、博多の町は山笠一色となります。


ミントの人物伝(その20)


仙崖(*)義梵(せんがいぎぼん、1750-1837)
江戸時代の禅僧。画家。
「東の良寛、西の仙崖」と云われる。

(*)実際は『崖』の山かんむりがはずれた文字


美濃国岐阜県)出身。
1760年(宝暦10年)11歳で出家。禅宗の僧になる。
1768年(明和5年)相模国東輝庵(とうきあん)の月船(げっせん)和尚について修行。
1781年(天明元年)32歳の頃から全国を行脚する。


美濃のある寺にいたとき
大垣藩の財政が苦しくて、財政担当の家老がたびたび替わった。
仙崖さん一句
「よかろうと思う家老が悪かろう、もとの家老がやはりよかろう」
仙崖さんは美濃を追放になってしまった。


そののち相模国から京都に出、本山で修行を積む。


博多の名刹聖福寺(しょうふくじ)の盤谷(ばんこく)和尚が、仙崖さんを弟子にと希望した。
臨済宗の本山である京都妙心寺の推薦もあった。
仙崖さんも承知する。


1788年(天明8年)春に博多に来て
翌1789年(寛政元年)40歳の正月、聖福寺の住職となる。
以降約50年間、博多で過ごした。


絵の上手なお坊さんである。
彼の絵は非常にわかりやすい水墨画だ。
これを使って庶民に説法していたのだろう。


仙崖さん、百姓ばんざいの絵を描いて一言
「との育ち 大ものこくな 鼻の下は誰が養うか」

仙崖さんは、特に反骨精神のかたまりだったわけではないのだが、こんな句もあったのだ。


頼まれれば誰にも絵を描いてやったので、注文がひっきりなしだった。
仙崖さん曰く
「うらめしや わが家は雪隠(せっちん、トイレのこと)か 来る人ごとに
紙おいてゆく」


仙崖さんの弟子がよく夜遊びに出かけていた。
そこである晩、仙崖さんは弟子が出入りする塀の下で座禅をした。
夜遅く帰った弟子はそうと知らず、仙崖さんの頭を踏み台にして飛び降りた。
翌朝、弟子は師匠の頭をみてびっくり、下駄のニの字が付いている!
恐るおそる「どうされました?」と聞くと
仙崖さん
「昨晩、座禅をしているわしの頭の上を、盗人(ぬすっと)猫がうろちょろしたのじゃ」
それ以来、弟子は素行(そこう)が改まった。


知合いの娘の結婚式のとき、お祝いをと頼まれて
仙崖さん一言
「死ね死ねと いうまで生きよ 花嫁ご」

(この婆さん、たいがい死んだらどうだ、と言われるまで長生きしなさい)


聖福寺は日本で最初の禅宗寺院である。
仙崖さんは、そこの住職であることは、本山である妙心寺の和尚よりも名誉なことだ
と思っていたらしい。
禅僧としての最高位である紫衣(しえ)を受け取らなかったのは
そのせいかも知れない。


庶民と共に、かつ洒脱に生きた仙崖さんだが、学識も相当のものだった。
皆に慕われつつ
1837年(天保8年)88歳で遷化(せんげ)。
出身地は違うが「博多の仙崖さん」の呼称がふさわしい。


ところで仙崖さんは、60歳代の後半に宝満山(ほうまんざん)に3回登っている。
平均寿命の短い時代である。
なかなか元気な人だったようだ。
山歩きの先輩ですね。


(参考文献)
Wikipedia
博多に強くなろうシリーズNo7 (西日本シティ銀行発行)


雷山