*ミントの人物伝その21[第202歩・晴]

最近は夕立ちがゲリラ的です。
山歩きも午後3時くらいまでに降りたほうが良いかもしれません。


ミントの人物伝(その21)


佐野常民(さのつねたみ、1823−1902)
佐賀藩士、日本赤十字社創始者


佐賀藩士、下村三郎左衛門の子として生まれる。
佐賀藩医の佐野常微(さのつねみ)の養子となり
1846年(弘化3年)以降、京都の時習堂や
大坂の適塾、江戸の象先堂(しょうせんどう)などで学ぶ。
優秀だったが、感激家でよく泣いたらしい。


1853年(嘉永6年)藩から請われ、精錬方頭人となる。
そして「からくり儀右衛門」こと田中儀右衛門らとともに
蒸気船と蒸気機関車の模型製作に従事する。
この頃の佐賀藩は人材育成に取り組み、軍備の近代化をめざしていたが
この流れを決定的にしたのはペリーの来航だった。


「太平の眠りをさます蒸気船、たったしはいで夜も眠れず」
ペリーが乗って来た黒船は巨大な蒸気船だった。
蒸気船は大砲とともに、当時の日本にとって大きな衝撃だったに違いない。
また、日本がいつか追いつかねばならない西洋文明の象徴でもあった。


「近い将来、必ず蒸気船が海軍の主流となるだろう」
常民達の目標はこの時から「国産の蒸気船を製造すること」になる。
とはいえ、機械工業の基盤がなかった当時の日本では、不可能に近いことだった。


1857年(安政4年)常民は36歳で佐賀三重津海軍所の監督になる。
この海軍所は、幕末で最高の科学技術が結集している場所だった。
1863年文久3年)春から本格的に蒸気船の製造を始めた。
2年後の1865年(慶応元年)、ついに国産蒸気船風丸(りょうふうまる)を完成させる。


実はその10年前に、薩摩藩が蒸気船雲行丸(うんこうまる)を完成させてはいたが
これはあまり性能が良くなかったようだ。
風丸は10馬力、全長18mでさほど大きくはないが、実用的な蒸気船としては国産第一号だったのだ。

結局、佐賀藩は財政が厳しくなり、蒸気船を一隻しか造れなかったが
蒸気船製造で蓄積した技術は明治時代以降に大きく花を咲かせることになる。

これは、第10代佐賀藩主である鍋島閑叟(なべしまかんそう)の意図したことでもあった。


鍋島閑叟は、従兄弟の薩摩藩島津斉彬(しまづなりあきら)と並び称される傑物だった。
「単に尊王攘夷を唱えるだけではだめだ。
技術力や軍事力の裏付けがなければ外国に対抗できるはずがない」
と考え、
早くから科学技術を振興したため、幕末における佐賀藩の軍事力は恐るべきものだった。
これが結果的に、常民をはじめとして人材を数多く育てることになり
明治維新における佐賀藩の立場を高める基(もと)となったのである。


その後の常民であるが
1867年(慶応3年)パリの万国博覧会に参加し、国際赤十字アンリ・デュナンと出会う。
デュナンは「敵味方を越えた博愛精神」を唱えていた。
常民は、赤十字社の組織や活動を見学し非常に感銘をうける。


常民は帰国したあとは日本海軍の基礎造りや、洋式灯台の建設を行なった。
また博覧会を開催し、日本の近代化に大きく寄与したが
デュナンの赤十字社のことを忘れることはなかった。


1877年(明治10年)2月、西南戦争が勃発。
このとき常民は元老院議員となっていた。
現地での悲惨な状況を聞いた常民は「敵味方の差別なく治療をする救護組織が必要だ」として
博愛社設立請願書』を政府に提出するが却下されてしまう。


彼は戦場である熊本に向かった。
そして政府軍総指揮官である有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王に会い
必死で救護組織設立の許可を懇請した。
親王の許可をもらえたときには感激家の彼のことである。大泣きしたかもしれない。
あとはすぐに負傷者の治療にあたった。
ちなみにこの有栖川宮熾仁親王は、戊辰戦争時の官軍軍歌「宮さん、宮さんお馬の前で・・」
と歌われた「宮さん」その人である。


博愛社は、1887年(明治20年)には日本赤十字社と改称。常民は初代社長となる。


この日本赤十字社はのちに
1888年明治21年磐梯山(ばんだいさん)の噴火や
1894年(明治27年)の日清戦争、1900年(明治33年)の義和団の乱などで
戦時救護活動を行なうこととなる。


常民はもともと医師であったが
個人や藩のことよりも、他人や国家のためを考え、行動した人物だった。
彼らしい言葉が残っている。
「博愛これを仁という。仁とは人をいつくしむこと」
彼は日本赤十字社の父」とも呼ばれている。


(参考文献)
 Wikipedia
「火城」(高橋克彦) 他
 写真はWikipediaより借用いたしました。


夏井ヶ浜のそばにある千畳敷(せんじょうじき)