*ミントの人物伝その22[第206歩・晴]


この人はすごい人物だと思いますが、なぜか大河ドラマの主人公にもなっていません。


ミントの人物伝(その22)


保科正之(ほしなまさゆき、1611-1673)


会津松平家初代藩主。
将軍家光と家綱を補佐して幕政に重きをなした。
水戸光圀池田光政と並び江戸初期の三名君とされる。


いきなりだが、幕末の会津藩主は松平容保(まつだいらかたもり)である。
彼はあえて困難な京都守護職を引き受け、尊皇攘夷志士を取り締まった。
また賊軍とされてからも、会津藩薩長と最後まで熾烈な戦いを続けた。
これは藩主や藩が「徳川将軍家を守り抜くこと」を第一に考えていたからであり
それはまさしく初代藩主である保科正之が、家訓として残したことであった。


保科正之は二代将軍徳川秀忠庶子である。


秀忠はもともと側室を持たなかった。
秀忠自身が特に側室を持ちたくなかったのか、
あるいは正室お江(おごう)の方が気が強かったので遠慮したのかは分からない。
おそらく後者だろう。


とにかく秀忠唯一?の浮気でお静の方に生ませたのが正之である。
つまり徳川家光徳川忠長の異母弟になるのだが
このような出生のため、すぐに武田信玄の次女である見性院に養育された。
お江の方の目を恐れたものらしい。
やがて信濃高遠藩主の保科正光が預かり、養子として育てられることとなる。


正之本人もやがて出生のことを知るようになる。
並の人間だったら、
「自分はこのような小さな藩の養子でいる人間ではない。
 天下人として号令できる立場なのだ」と考え、傲慢(ごうまん)になるか、
「このことを利用して将軍家に取り入ろう」として自分を売り込むか
このどちらかではないだろうか?
彼はそのどちらでもなかった。


彼は一生、養父である保科正光への恩を忘れなかったし、
将軍家に対しても、家臣としての礼を失うことはなかった。

このためかえって家光や忠長にかわいがられることになる。
正之は性格が謹直で、また聡明だったので次第に取り立てられてゆく。


1631年(寛永8年)高遠藩主、肥後守
1643年(寛永20年)陸奥会津藩23万石の大名となる。

このころから会津藩主としても善政を施し、名君と呼ばれるようになる。


1651年(慶安4年)家光が重篤になったとき、正之を枕頭に呼んでこう言った。
「肥後よ。家綱はまだ幼い。後のことを頼みおく」と。
感激した正之は徳川宗家への忠誠を誓い、
甥の四代将軍家綱の補佐役となり、幕閣で重きをなすようになる。


家綱時代の三大政策で
末期養子の禁止の緩和」「殉死の禁止」「大名証人制度の廃止」があるが
これらはいずれも正之が中心となり推し進めたものだった。


また玉川上水を開削させて、当時人口50万人といわれた江戸の水不足を解消させ
耕地を増やしたことは忘れてはいけない。


特に彼らしい指導力が発揮されたのが、明暦の大火のときだった。
1657年(明暦3年)1月に発生した火災はたちまち広範囲に広がり
江戸の町は大部分が焼失、多くの犠牲者が出る大災害となる。
このとき江戸城天守閣までが焼け落ちてしまった。


隅田川沿いに幕府が保管する年貢米倉庫があった。
ここには百万俵以上の年貢米があったが、
この米蔵に火がついたとの知らせが入ったとき、正之はすぐに
「飢えた者は火を消して米を持ち出せ。持ち出した米は取ってかまわぬ」と触れまわらせる。
これは消火活動救援米支給を兼ねた内容であり
結果、見事に年貢米倉庫は消火されたのだった。


その後は彼の指導で、江戸の復興に大規模な資金拠出をしたが
一方で江戸城天守閣は不要であるとして再建しなかった。


なんと臨機応変な対応だろうか。


正之は基本的に幕府中心主義ではあったが
江戸時代を通じて
このように人民に対するヒューマニズムにあふれた政策をとった為政者は少ない。

彼の苦労の多い育ちも影響しているかもしれない。


正之は、幕府から松平姓を名乗ることを勧められるが
養育してくれた保科家への感謝を忘れず、生涯「保科正之」だった。

彼の死後、三代目会津藩主の正容のときになって初めて「松平」姓を名乗ることになる。


東日本大震災で困難な時期の現代にこそ
このような為政者の出現が求められると思います。
いかがでしょうか?


(参考文献)
Wikipedia
Web 他
画像はWikipediaから借用いたしました。


万年山のキスゲ