*ミントの人物伝その23[第208歩・晴]

今回の人物伝は
前回に続き、会津に関わりのあるこの人です。


ミントの人物伝(その23)
蒲生氏郷(がもううじさと、1556-1595)
安土桃山時代の武将。


近江蒲生郡にて、六角氏の重臣である蒲生賢秀の嫡男として出生。
1568年(永禄11年)六角氏が織田信長に滅ぼされたため
賢秀は信長に臣従し、氏郷は人質として信長のもとに送られる。


信長は氏郷の聡明さと才能を大いに気に入って、次女の冬姫と結婚させる。
そして氏郷は、織田家の一門として手厚く迎えられるのである。
敵方の武将の子供を婿にした信長もすごいが、
氏郷本人も相当に優秀だったのだろう。


1569年(永禄12年)以降は織田軍の一員として大いに活躍するが
1582年(天正10年)、信長が本能寺の変明智光秀に殺されてからは
羽柴秀吉の武将として働く。
1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いでの功績で、伊勢国南部12万石を与えられる。
このとき28歳。


1585年(天正13年)洗礼を受けクリスチャンとなる。洗礼名はレオン。


このあとも出世はめざましい。
1590年(天正18年)小田原征伐後、会津黒川(のちの会津若松)42万石の領主。
1591年(天正19年)には加増されついに92万石の大大名となる。まだ35歳であった。
ちなみにこの当時の92万石は秀吉、徳川家康前田利家に次ぐ石高である。
もちろん4人の中で一番若い。


このように順調すぎる出世の理由は
軍事能力が優れていたこと
時勢を冷静に判断できる政治力を持っていたこと
信長の娘婿となり、信長や秀吉といった有力者に早くから目をかけられたこと
奥州の実力者である伊達政宗への監視役の役目を負わされたこと
などだろう。


しかし労苦の多い奥州時代は長くは続かなかった。
彼は1595年(文禄4年)には病死してしまう。享年40歳。


氏郷は文武両道に秀でた武将だった。
また手柄をあげた家臣には
氏郷自らが風呂を炊いて振舞ったと言われているほど
家臣を非常に大事にしたことでも知られる。


ところで彼は天下人になる野心を持っていたのだろうか?
こんな逸話が残っている。


聚楽第での諸大名との雑談のなかで
秀吉亡き後は誰が後継者となるか、の話題となったとき
「それは家康だ」との声が多かったが
氏郷は
「家康は吝嗇(りんしょく、ケチのこと)なので無理だ。(前田)利家だろう」
そして
「利家が高齢で無理なら、自分が天下人になる」
と述べたと言われる。


一方で42万石とはいえ、奥州の地に転封が決まったとき
氏郷は
畿内から離れ、これで天下を望めなくなった」と言い、落涙したとも。


本当だろうか?
あまりに若すぎる実力者の死を惜しんで、作られた伝承ではないだろうか。


ただ秀吉が、器量人である氏郷を恐れて、遠方に移封したという話があるが
これはあるいは事実かもしれない。


現在でも、氏郷があと20年生きていたら歴史はどう変わったか?
という点でさまざまな意見があるようだ。


氏郷は関ヶ原では東軍西軍のどちらに加担しただろうか?
豊臣秀頼や家康・秀忠とはどのような関係になっていっただろうか?
そして、日本の歴史はどう変わっただろうか?

等々、想像をかき立てられる。


確かに彼が長生きしていれば、激動の歴史の中で大きな役割を果たしたかもしれない。
そう思わせるほどのスケールの大きな実力者だった。


(参考文献)
Wikipedia
Web 他
画像は Wikipediaより借用いたしました。


***最近読んだ本***


「英国庭園の謎」(有栖川有栖
エラリー・クイーンの国名シリーズにならって書いた作品。
短編集だが退屈せずに読めた。


「赤目のジャック」(佐藤賢一
西洋歴史小説の分野を開拓した筆者の異色小説。
14世紀の北部フランスで起こった「ジャックリーの乱」を描く。
多分にフィクションが入っているだろうが面白かった。


古処山