*ミントの人物伝その24−2[第211歩・晴]

書いていて面白くなってきました。


ミントの人物伝(その24−2)


引続きハンニバル・バルカです。


ハンニバルはイタリア北部に到着する。
ローマはまさかハンニバルがアルプス越えでやって来るとは思っておらず
大きな衝撃をうけた。


元老院は執政官プブリウス・コルネリウススキピオに2個軍団を与えて迎撃に派遣する。
ちなみにこのスキピオに同名の息子(大スキピオ)がいるが
彼こそハンニバルの終生のライバルとなる人物だ。


ハンニバルの快進撃が始まった。
B.C.218年11月、ティキウスの戦い
ハンニバルの精強なカルタゴ騎兵がローマ騎兵を打ち破り、指揮官スキピオも負傷する。
同年12月、トレビアの戦い
ハンニバルスキピオともう一人の執政官ティベリウスを破る。
B.C.217年、トラシメネス湖の戦い
ハンニバルが伏撃でガイウス・フラミニウスを破る。


B.C.216年8月2日、カルタゴ軍50,000人とローマ軍80,000人とが
アプリア地方のカンナエ(カンネー)の地で激突した。
ここでハンニバルは、ローマ軍に対し見事な完全包囲態勢を完成させる。
この陣形は野戦における最高の形と言ってよいだろう。
完全に取り囲まれた軍隊は逃げ口がなく恐慌をきたす。
密集した中央部では圧死する者もいたという。
カルタゴ軍は外周から攻撃することで、ローマ軍を完全に殲滅(せんめつ)させたのである。


カルタゴ軍の損害が6,000名に対し、ローマ軍の死者は60,000名、捕虜10,000名。
カルタゴ軍の圧倒的勝利だった。
また、この一度の戦闘で、ローマ側は指導者層の25%を失ったという。


カンナエ(カンネー)の戦いは、人数的に劣勢の軍が優勢の軍を包囲壊滅させた点で
稀有な戦例ともされる。
これによりハンニバルの名声は頂点に達した。


ところがローマは態勢を徐々に立て直してゆく。
優勢な海軍力を活かして、カルタゴ本国からのハンニバルへの補給路を断つ。
このためハンニバルは、首都ローマを攻めきれずに
本国と連絡のつけやすいイタリア半島南部への攻撃に切り替えざるをえなくなり、
戦局は次第に膠着(こうちゃく)状態になってゆく。


一方、ハンニバルの本拠地というべきヒスパニアには、弟のハスドルバルがいた。
B.C.210年にローマ軍の大スキピオスキピオ・アフリカヌス)がヒスパニアに到着。
彼は次々に失地を回復しただけでなく、ハスドルバルをヒスパニアから追い出し
B.C.206年にはついにヒスパニアを征服してしまう。
なおこのときシラクサにいたアルキメデスがローマ兵により殺されている。


大スキピオ


ハンニバルは補給を完全に絶たれ、イタリア半島南部に孤立してしまった。


B.C.204年、大スキピオは、北アフリカカルタゴ本国に攻め込み、
ヌミディアと協同したカルタゴ軍を打ち破る。
そしてその勢いで、ヌミディアをローマの保護下においてしまう。
このあとヌミディア軍はローマ軍に組み入れられたため、カルタゴは同盟国と
その強力な騎兵を失ってしまった。


狼狽したカルタゴ政府はハンニバルを呼び戻す一方で、ローマと休戦協定を結ぼうと図るが
交渉は決裂する。


ハンニバル大スキピオの最後の決戦の時が刻々と近づいていた。
<続く>


古処山