*ミントの人物伝その25[第214歩・雨]

今回は福岡市にゆかりのある人物です。


ミントの人物伝(その25)


亀井南冥(かめいなんめい、1743-1814)
江戸時代の儒学者、医師。
福岡藩西学問所館長。


筑前国(福岡県)早良郡姪浜村の村医者、亀井聴因の長男として生まれる。
長じて上京し
儒学者の吉益東洞、医学者の永富独嘯(どくしょう)に学ぶ。


1762年(宝暦12年)博多唐人町で私塾を開き、多くの門人を集める。
1784年(天明4年)藩校である西学問所の「甘棠館(かんとうかん)」館長になる。
この時、福岡藩竹田定良(たけださだよし)が館長の
東学問所修猷館(しゅうゆうかん)」も設立しているので
全国的に珍しい、藩校が二つ並立する状態になった。



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1784年(天明4年)2月、志賀島(しかのしま)でのことである。
この志賀島、現在は福岡市東区で陸続きになっているが、この当時は文字通りの島だった。
島の百姓である甚兵衛(じんべえ)が、小作人2人に田んぼの手入れをさせていた。
すると石に囲まれた中に光るものが見つかった。
縦横2.3センチ、108グラムの小さな物体だった。


「何やろうか?」
「案外重たかばい」
「金じゃなかろうか」


ということで米屋の親父に見せた。
米屋の親父は「ハンコみたいだけど、こりゃメッキじゃなかばい」と言い
懇意にしていた亀井南冥に見てもらうことにした。


南冥は一目見てびっくりした。
徂徠古学派の学者だった彼は、古文書の原文を丹念に読んでいたから
すぐに分かったのだ。
刻まれた文字は「漢委奴国王」と読めるが、
後漢書東夷伝』に
建武中元2年(57年)、倭の奴国朝貢す。光武、賜うに印綬を以ってす」とある。
これこそは後漢光武帝が奴国(なこく)に授けた印綬である、と。

国宝「金印」の発見である。


18世紀の日本の地方都市に、この知識を持った学者がいたことは
考えてみると凄いことだと思う。


もし米屋の親父の知りあいが南冥でなければどうなっただろうか。
その価値が分からずに溶かされてしまったかもしれない。
金印にとっても幸せなことだった。


金印に書かれた文字は、日本のことを書いた最古のものだ。
南冥は「金印弁」を著して、金印が歴史上非常に重要なものであり、保護すべきであるとした。
これにより南冥の名声はさらに高まった。


南冥の甘棠館は生徒の自主性を重んじたという。
また、講義後は飲み会を開いたり、皆で野外に出たりしたらしい。
その学派は、朱子学派の東学問所「修猷館(しゅうゆうかん)」と対照的だったが、
全国各地から集まった学生の中から、多くの人材が育った。


ところが南冥に悲運が襲う。
1790年(寛政2年)松平定信寛政の改革により、朱子学以外の学問が禁止されると
次第に古学派である南冥の立場が危うくなる。
1792年 (寛政4年)甘棠館の館長を解任される。
1798年(寛政10年)には甘棠館自体が火災で焼失し、
甘棠館は廃止、教官は解職、生徒は修猷館編入となってしまった。


西学問所(甘棠館)跡


その後、南冥は息子の昭陽(しょうよう)と共に、私塾として亀井塾を開設。
そこにも日本各地から数多くの弟子が集まったという。


1814年(文化11年)自宅の火災により死去。享年72歳。


亀井南冥の墓は福岡市中央区地行の浄満寺(じょうまんじ)にあり
彼がその価値を発見した金印は福岡市博物館に展示されている。


(参考文献)
Wikipedia
博多に強くなろうシリーズNo.6(西日本シティ銀行)
 他


南冥と昭陽の墓