*ミントの人物伝その26−2[第216歩・曇]

引続き竹中重治の話です。


ミントの人物伝(その26−2)


姉川の戦いのあとくらいから、竹中重治は秀吉の軍師となり、活躍をするようになる。
近江の浅井氏攻めや中国攻略などで、秀吉の参謀として様々な武功をあげた。


播磨国を平定したとき、小寺氏の家老、小寺官兵衛が傘下に加わる。
後の黒田官兵衛(如水)である。
1578年(天正6年)摂津の荒木村重が、信長に反旗を翻して、有岡城に籠城したときのこと。
この官兵衛、村重を説得しようと城に赴いた。
ところが、逆に村重に幽閉されてしまった。


黒田官兵衛(如水)


官兵衛なかなか帰ってこない。
信長は怒った。
官兵衛は裏切ったに違いない、と思い
秀吉に、人質として織田軍に預かっていた官兵衛の嫡子、松寿丸
斬れと命じたのである。


秀吉は悩んだ。
ここで重治は言った。
「わたしにお任せください」と。
彼は松寿丸をかくまってしまうのである。


1年後、有岡城は織田軍により落とされ、官兵衛は救出される。
憔悴しきった官兵衛の様子を聞いて、信長はさすがに反省した。
「わしは官兵衛に合わせる顔がない」と言ったらしい。
松寿丸を自分の命令で殺してしまった、と思っていたからだ。
しかし実際には松寿丸は生きていたのだ。
信長の数少ない反省の場面である。


なぜ重治は長政をかくまったのだろう?
命令違反は重罪である。ましてや主君は気性の激しい信長だ。


思うに、重治は官兵衛の性格をよくつかんでいた。
裏切りは考えられないと判断したのだろう。
それにもし松寿丸を斬ってしまえば、官兵衛を失ってしまう。
「病弱な自分にもしものことがあった後は、彼がいれば秀吉を補佐してくれるに違いない」
そう考えたかもしれない。


官兵衛はこのことを非常に感謝し、のち竹中の家紋を貰い受けている。
松寿丸は、のちの筑前福岡藩の初代藩主、黒田長政である。


1579年(天正7年)重治は病に倒れる。
秀吉は静養を勧めるが、重治は「武士らしく戦場で死にたい」と述べた。
播磨三木城の包囲戦のさなか死去。享年36歳。


軍師である彼らしい最後だった。


(参考文献)
 Wikipedia
  他
 写真はWikipediaから借用しています。


油山