*ミントの人物伝その27[220歩・曇]

やっとこの人物を書きます。
立花宗茂とこの人物がなぜか好きです。


ミントの人物伝(その27)


ドルゴン(1612-1650)
清朝草創期の指導者。順治帝の摂政。


清は、満州族(愛新覚羅氏)が明を倒して樹立した王朝である。
太祖ヌルハチ、2代目ホンタイジ中国東北部で勢力を伸ばし
1644年には北京に侵攻、ついにこれを占拠する。
このとき3代目皇帝の順治帝(フリン)はまだ6歳だった。


当然補佐する強力な指導者がいる。
順治帝の叔父でヌルハチの第14子であるドルゴンだ。


非常に有能であり、ヌルハチも後継者にと考えていたようだが
ヌルハチが死んだとき、まだ15歳だったため見送られたらしい。


ドルゴンはホンタイジの従兄弟であるジルガランをしりぞけ
順治帝の摂政となり、実質的な独裁者となる。


彼は、明の残存勢力を次々と攻め滅ぼし、領土を広げた。
また支配地の漢民族には、満州族の風習である弁髪を強要させた。
このように強い態度で臨む一方、肉体に加える体罰は禁止したという。
なんといっても少数の満州族が、大多数の漢民族や諸民族を支配しなければならないのだ。
彼は明時代の組織も上手に使い、体制を整えてゆく。
ドルゴンは、親王(えいしんのう)と呼ばれ称えられた。


実質的に皇帝といってよいドルゴンだったが、自ら皇帝になろうとはしなかった。
通常の中国史ではこんな場合、必ずといってよいほど帝位を奪うものである。


なぜ彼は帝位を簒奪(さんだつ)しなかったのか?
多分、皇帝の地位にそれほど魅力を感じていなかったのだろう。
皇帝でなくとも自分の思うがままに政治を行なうことが出来る。
それで十分だったのではないだろうか。
そして彼には子供がいなかった。
権力を世襲させたい、という野望もなかったのだ。


建国の功労者であるドルゴンだが、順治帝には嫌われた。
順治帝の母親(ホンタイジの未亡人)を妻に迎えたためと言われる。
1650年暮れに、ドルゴンは狩猟中の事故で死去しているが
順治帝は彼の名誉を剥奪してしまう。


儒教の教育を受けた順治帝
兄嫁を妻にしたドルゴンが許せなかったのだ。
しかしこれは、兄弟の未亡人を経済的に救うための
満州族の一般的な習慣だったのだから仕方がないといえよう。
ドルゴンの名誉が回復されるのは、乾隆帝(けんりゅうてい)の治世である。



彼の生き方には清々しさが感じられる。
彼が清朝草創期の指導者だったからこそ
4代目康煕帝(こうきてい)以後の黄金時代があったというべきだろう。


(参考文献)
Wikipedia
「海東青、摂政王ドルゴン」(井上祐美子
 他
画像はWikipediaから借用しました。


***最近読んだ本***


「アフリカの蹄(ひづめ)」(帚木蓬生)
この作者、ははきぎほうせい、と読む。
現役の精神科医で小説家である。
作品の舞台は、かつての南アフリカ共和国がモデルになっている。
アパルトヘイトと呼ばれる、悪名高い人種差別制度のあった国だ。
白人支配者層が、絶滅したはずの天然痘を使い、黒人社会を滅亡させようとするが
若い日本人医師がこれに立ち向かう冒険小説。
面白かった。
ちなみに天然痘は、1960年代までは毎年1千万人の患者を出していたが
種痘ワクチンの普及によって漸減してゆき
ようやく1980年にWHO総会で絶滅宣言が出されたそうである。