*ミントの人物伝その29[第237歩・曇]

「ミントの人物伝」はミントの好きな人物を書いています。
でも好きな人物ってそう多くはいません。
清々しく生きた人間、まともな信念を貫いて生きた人間が好きです。
残念ながら、善良なだけの人間は、歴史の中で埋もれてしまっていることが
多いようです。


ミントの人物伝(その29)
中浜万次郎(なかはままんじろう、1827-1898)
ジョン万次郎の名でも知られる。
幕末の通訳。明治の教育者。


土佐国中濱村、半農半漁の家に生まれる。
家が貧しくて寺子屋にも通えず、読み書きもほとんど出来なかった。


1841年(天宝12年)、万次郎14歳のときである。
彼の乗った漁師船が嵐にあって遭難してしまう。
仲間4人と共に5日間漂流し、伊豆諸島の無人島『鳥島』に漂着する。
そしてそこで143日間も過ごすことになる。
魚や果物など食料は十分にあったのだろうか?
非常に過酷な状況だったに違いない。


やがて通りかかったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号」に救助される。
現代と異なり、この当時アメリカは捕鯨大国である。
灯油の材料となる鯨油を獲得しようと
アメリ捕鯨船は太平洋の至るところに出没していたのだ。


万次郎は、この船で初めて世界地図を見た。
日本の狭さ小ささに驚くとともに、まだ見ぬ世界への関心をかき立てられたと思う。
船長のホイットフィールドは、利発な万次郎を非常にかわいがり
万次郎は船名にちなんでジョンという愛称を付けられた。


ところで当時の日本は鎖国中である。そのまま5人を帰国させることが出来ない。
漂流者のうち年長者3人はハワイで降ろすことが決まった。


「お前はどうする?ジョン」ホイットフィールドは尋ねた。
「わたしはアメリカに行ってみたいです。連れて行ってください」
こうして万次郎の数奇な人生が始まった。


この年、アメリカに渡った万次郎はホイットフィールドの養子となり
彼の家族達と共に暮らすことになる。
東海岸マサチューセッツ州フェアヘブンでの生活は新発見の連続だった。
蒸気機関車、蒸気船などの最新の文明機械に驚き
人種差別に遭ったり、生活習慣の違いにとまどいながらも
新生活に次第になじんでゆく。


ホイットフィールドは高等教育も受けさせてくれた。
万次郎は
1843年(天保15年)オックスフォード大学
1844年(弘化元年)バーレット・アカデミーで学ぶ。
彼は英語・数学・航海術・造船技術などを熱心に勉強し首席になったという。


卒業後は捕鯨船に乗りこんで3年余り働く。
しかし次第に望郷の念が強くなり、ついに帰国を決意する。
そのためには資金が必要だ。
ホイットフィールドに別れを告げ
彼はゴールドラッシュに沸くカリフォルニアに移った。
一攫千金に賭けたのだろう。
金を採掘する仕事が幸い成功し、大金600ドルを得ることが出来た。


資金を持ってハワイに渡り、かつての仲間達と再会。
共に帰国することを提案する。


紆余曲折があり
上海、琉球を経由し、ついに
1851年(嘉永4年)、仲間の2人と薩摩に上陸することが出来た。
とはいえ鎖国中の日本に戻ったのだから
薩摩藩長崎奉行所で長期間の取り調べを受けることになる。


1852年(嘉永5年)夏にやっと故郷の土佐に帰ることが出来た。
漂民達は日本語をずいぶん忘れていたらしい。
取調べにあたった河田小龍は、漂民の中で教養のある万次郎を自宅に連れ帰り
彼に読み書きを教え、代わりに万次郎から英語を学んだという。
河田は万次郎が話した内容を「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」にまとめた。
坂本龍馬も河田を通じて、万次郎の世界観に影響を受けたといわれる。


1853年(嘉永6年)6月、浦賀ペリーが黒船で来航し幕府に通商を迫った。
万次郎の運命が変わる大事件でもあった。


土佐藩は万次郎に士分の位を与え
彼は出身地にちなんで「中浜」姓を名乗ることになる。
幕府は、万次郎を直参として召し出すことにした。
彼の持つ高い教養と知識、経験が必要となる時代になったのだ。
彼は江戸に行き、軍艦教授所の教授として造船の指揮をしたり
英語の講師や翻訳の仕事を精力的に果たした。


1859年(安政6年)の日米和親条約の締結に際しては、陰ながら助言進言をしたという。
万次郎は日米の架け橋となるため努力を惜しまなかった。


1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書交換のため
代表の通訳方として、咸臨丸に乗ってアメリカに渡る。
再びアメリカの土を踏んだときは感慨無量だったのではないだろうか。


明治の世になってからは、開成学校の教授になるなど教育者としての道を歩んだ。
性格はあくまで謙虚で、晩年には貧しい人に積極的に施しを続けていたという。


もし彼が遭難しなければ、土佐の善良な無名の漁師として生涯を送っていたかも知れない。


1898年(明治31年中浜万次郎 死去。
    享年 72歳。


ところで万次郎は、1870年(明治3年)に渡米し
ホイットフィールドとの感激の再会をはたしている。
このとき万次郎は43歳、ホイットフィールドは67歳だった。


日本にいる万次郎の子孫はホイットフィールド船長の子孫と
代々交流を続け、現在に至っているそうである。


(参考文献)
Wikipedia
写真はWikipediaから借用いたしました。


宗像大島