*ミントの人物伝その30[第240歩・晴]

今回は博多の人物の話です。
特定の企業人を採りあげるのは気が引けるのですが
この人物はぜひ書きたかったので。


ミントの人物伝(その30)
川原俊夫(かわはらとしお、1913-1980)辛子明太子の生みの親。
−以下敬称略−


1913年(大正2年)釜山で生まれる。
家は海漕店を営んでいた。
1932年(昭和7年満州電業に入社。
1936年(昭和11年田中千鶴子と結婚。


川原は何度も召集を受けたが、沖縄戦のときは
宮古島九死に一生を得て生還をする。


1946年(昭和21年)博多に引き揚げてくる。
ここで食料品の販売を始めた。
物資不足の折、品物は干魚・干椎茸・高野豆腐など
乾物中心だったという。


川原は考えた。
「どうもかさかさしているな。
人が食べて元気の出るようなものを売りたいものだ」と。


ここで釜山時代に食べたキムチ漬けタラコの味を思い出した。
これだ。このタラコを販売したい。
そう思い、まず韓国からタラコを仕入れてみた。
ところがそれは全然舌に合わない。
川原たちが子供の頃なじんでいたものは、
日本人向けに作られていたものだったのだ。


そこで自分達でその味を再現しようと研究を始めた。
食品販売の仕事は順調に伸びてはいたが、同時に研究も進めてゆく。
当時の日本は、唐辛子を調味料として使う習慣がまだなかったので
試行錯誤が続いた。


最初は店に出せるようなものは作れなかった。


近海で取れるスケトウダラの卵では、味付け原液に付けると形くずれをおこす。
次第に北海道産のものが質が良いことが分かってきた。
これは粒が太く粗いので、日本人の舌によく合ったのである。
また、唐辛子の質にこだわることで、釜山時代のタラコの味に近づいていった。


1949年(昭和24年)1月10日、「辛子明太子」完成。
ついに店頭の商品として販売されることになった。


スケトウダラのことを朝鮮語でミヨンテという。
漢字で明太(メンタイ)。
その卵だからミヨンテコ、メンタイコだが、唐辛子などで味付けするので
「辛子明太子」なのである。


しばらくは全く売れなかった。
川原はボランティアなどの地域活動や山笠に参加した際、
まわりに食べてもらって感想を聞いたりした。


味が向上するにつれ少しずつ販売量が上向いていった。
1960年(昭和35年)本格的に「辛子明太子」を販売開始。
近くの冷泉(れいせん)小学校の先生がよく買ってくれたという。


ある日近くの食品販売店の主人が来て、川原に言った。
「おたくの辛子明太子をうちで販売させてください」
川原は言った。
「うちは卸はしません。あなたも作られたらいかがですか。
仕入れ、保管、味付けなどの方法はお教えします。
ただし味そのものはあなたが工夫して下さい」
と。


この結果、博多の味として様々な風味の明太子が生まれ
やがて博多名物として定着することになる。


川原は商標登録さえしなかった。
「明太子は家庭の惣菜だ。惣菜に商標登録などおかしい」と言って
勧められても断ったという。
また「良い品が売れるのだ。名前で売れるのではない」と言い
同じく「元祖」を名乗ることもしなかった。


現在、どこかのラーメン店が、自分こそ「元祖」だ、などと言って
同業者同士で争っているが、なんという違いだろう。


1975年(昭和50年)新幹線が博多まで開通する。
これを機会に明太子は飛躍的に販売量を増やすことになった。


もし、彼が自分の利益だけにこだわっていたら、現在の博多名物
「辛子明太子」はなかったかも知れない。


また、明太子の誕生には
妻の千鶴子の存在を抜きにしては語れない。
明太子の最後の味付けについては、彼女の隠し味をきかせたという。
俊夫と千鶴子の二人三脚で作り上げた味だったのだ。


1980年(昭和55年)川原俊夫 没。


彼の会社は同年8月に法人化され
「株式会社ふくや」となり現在に至っている。


(参考文献)
 株式会社ふくやHP
 西日本シティ銀行「ふるさと歴史シリーズ」
 写真は「ふるさと歴史シリーズ」より借用いたしました。


***最近読んだ本***


松平春嶽」(中島道子)
幕末における越前福井藩藩主の松平春嶽。幕末四賢侯の一人。
親藩の田安家に生まれたため、どうしても幕府側に軸足を置いており
ついに公武合体路線から抜け出ることはなかった。
山内容堂に比べ、どちらかというと地味な存在だ。
が、この本は幕末の歴史の整理をするのに良い。
会話文が多く読みやすかった。