*ミントの人物伝その31[第242歩・晴]

人物伝はどうしても近世以降の日本人が多くなります。
主人公の性格や行動がある程度わかっているほうが
書きやすいのです。


ミントの人物伝(その31)
間宮林蔵(まみやりんぞう、1780-1844)
江戸時代の探検家。幕府隠密。
間宮海峡を発見する。


1780年(安永9年)常陸国茨城県筑波郡上平柳村に
農民の子として生まれる。


子供の頃から神童と呼ばれ、長ずると役人に取り立てられ
江戸へと旅立った。
身分制度の厳しい江戸時代になかなか考えにくいことだ。
思うに、この前後の時期に幕府の隠密になったのではないだろうか。


江戸時代は隠密が活躍した時代で
幕府の密命を受けて諸藩の動向を調査したり、密貿易の摘発などを行なっていたのだ。


1799年(寛政11年)蝦夷地の南千島に行く。
隠密としてではなく、北方の地勢調査を幕府から命じられたのだろう。
そのときに同地に来ていた伊能忠敬とも会ったという。
ここから彼の永い蝦夷地での活動が始まる。


1808年(文化5年)松田伝十郎に従い、樺太(からふと)を探検し
西海岸を北上して海峡部に到る。
のちに間宮海峡と名付けられる地点だ。
「海が続いている。すると樺太は島だ」
樺太が島であることを発見した瞬間だった。


1809年(文化6年)第二次樺太探検では、林蔵は樺太人とともに海峡を渡り、
黒竜江下流を調査し、地形やロシア・中国の支配状況を確認している。
防寒着も粗末な当時のことだ。大変だったに違いない。


続いて彼は、改めて江戸で伊能忠敬に測量技術を学び
蝦夷地の測量を始めた。
この測量は5年間かけて完成した。
出来た『蝦夷図』は、伊能忠敬大日本沿海輿地全図の一部となったのである。


後年のことだが、「日露和親条約」が締結されたときには
林蔵の地図および調査結果「東韃地方紀行」が、ロシアとの交渉に大いに活かされることになる。


1822年(文政5年)まで、林蔵は蝦夷地で測量活動を続けたが
江戸に戻ってからは、本来の隠密としての活動を始めた。
彼は変装の名人だったという。


1828年(文政11年)9月
オランダ人医師であるシーボルトが、『大日本沿海輿地全図』があまりに正確なのに驚き
国外に持ち出そうとしたが、幕府に知られてしまう。
シーボルトが国外追放となり、天文方の高橋景保が処罰されたシーボルト事件」だ。
この密告者が他ならぬ間宮林蔵だという。
高橋景保の父親、至時は林蔵の師匠でもあったので、
林蔵にとってみると任務を忠実に果たしたにすぎないが、評判は良くなかったようだ。
しかし当時の幕府に、国防意識を目覚めさせることにはなったかも知れない。


シーボルトは林蔵の密告のことを知っていたのだろうか。
母国に戻ったシーボルトは、林蔵らの発見した海峡を「マミアノセト(間宮の瀬戸)」と紹介したので
皮肉なことに、「間宮海峡」の名が地図に残ることになる。


間宮林蔵は、「探検家」と「隠密」の二つの顔を持つユニークな人物だ。
そして彼の足跡はロマンに満ちている。


1844年(天保15年)江戸の自宅で波乱の生涯を閉じる。享年65歳。


旅から旅の人生だったので、家庭を持つこともなかった。
直系の子孫もいないと思われていたが、
近年になり、実は林蔵にはアイヌ人女性との間に娘がいて、
その子孫が北海道に在住していることが分かったそうである。


(参考文献)
Wikipedia 他
画像はWikipediaから借用いたしました。


岳滅鬼山