*ミントの人物伝その33[第249歩・晴]

福岡は芸能人や歌手を多数輩出していますが
その先駆者がこの人でしょう。


ミントの人物伝(その33)
川上音二郎(かわかみおとじろう、1864-1911)
明治時代の俳優・芸人。


1864年文久4年)筑前国博多の中対馬小路(なかつましょうじ)に生まれる。
1878年明治11年)家出して大坂へ密航する。さらに東京へ。
福沢諭吉の書生になり、慶応義塾に学ぶ。


職を転々としながら反政府の自由党の「壮士」となる。
ちなみに「壮士」とは、血気盛んな青年のことをいう。
演説や扇動などの罪で何度も逮捕される。
音二郎は短気で暴れん坊だったが、きっぷが良く
人には好かれたという。


1887年(明治20年)「改良演劇」と銘打ち
一座を率いて興行を行なう。


当時はなんといっても歌舞伎(旧劇)が全盛だった。
音二郎の劇は壮士芝居」(新派劇)と呼ばれた。
これは自由民権思想を広めるための芝居だったが
プロの役者が演ずるのではなく、素人が身体を張ってやるもので
取っ組み合いや投げ飛ばしなどは当たり前。
その激しさを注意されても
「よかよか、面白ければ良か。」
などと言って続けたため、楽屋にはいつも怪我人がいたという。


やがて音二郎は『オッペケペー節』を壮士芝居で歌い始める。
時事風刺をからませた彼の歌は次第に評判になる。
ついには壮士芝居といえば「オッペケペー」、
川上音二郎といえば「オッペケペー」と言われるようになる。


彼は陣羽織を着てハチマキを締め、日の丸軍扇を持って
「権利幸福嫌いな人に 自由湯(じゆうとう)をば飲ましたい♪
オッペケペー オッペケペー オッペケペッポ ペッポッポー」

などと歌った。
「自由湯」と「自由党」をかけている。
オッペケペー」という言葉に特別な意味はないらしい。


1891年(明治24年)東京鳥越の中村座で「板垣君遭難実記」上演。
1894年(明治27年日清戦争勃発。
いちはやく題材に取り入れた音二郎は
「壮絶快絶日清戦争
川上音二郎戦地見聞日記」
「威海衛陥落」などを上演。
大評判で空前の大入りとなった。


やがて人気芸者の貞奴(小山貞)と結婚。
1896年(明治29年)には、東京の神田に川上座を開場した。
この頃が音二郎の人生の最初のピークだった。


日清戦争が終わった頃から、戦争物の壮士芝居は人気にかげりが見えてゆく。


ところが音二郎は、自由党時代の壮士の血が騒いだのだろうか。
1898年(明治31年)3月、第5回総選挙に出馬して落選。
こりずに同年8月の第6回総選挙にも出馬して、これまた落選。
ついに資金を使い果たし、川上座を手放してしまう。
天国から地獄へといったところか。


このあと彼は不思議な行動に出る。


「よし、ボート旅行をするばい」
下田から大きなボートに乗って出発したのだ。
音二郎と貞奴、姪の「つる」、犬一匹だった。
本人は千島に行くとかアメリカに行くとか言っていたらしい。
もちろん無理な話で、あてもなく漂流する。
結局、惨憺(さんたん)たる状況で下田に戻る。


バッカじゃなかろうか、と思ってはいけない。
おそらく音二郎は
「自分はまだまだ元気だ」と、世間に知らせたかったのだろう。


そのうちに音二郎は考えた。
「日本では行き詰まりだ。ひとつ海外で興行をやってみるか」
ここが彼の発想の非凡なところだ。
それまで海外で、日本人が芝居興行をして、成功した例はほとんどなかった。
一世一代の博打だった。


1899年(明治32年アメリカに渡り西海岸でまず興行を行なった。
歌舞伎の衣装を持っていって歌舞伎をやったという。


そののちアメリカを横断して、ニューヨークやワシントンでも公演する。
このときたまたまイギリスから役者が来ていて、「オセロ」の舞台を見る機会があった。
感心した彼は、シェイクスピアを日本風に翻訳して、早速演じることにした。
なんとアメリカの舞台でである。
「なあに、日本人がやるから面白いったい」
これが当たって評判になる。
たぶん日本語で演じたのだろうが、ずいぶん音二郎は度胸があると思う。


1900年(明治33年)にはパリ万博で歌舞伎を公演。
以降2年間、ヨーロッパ各地を公演して大好評を博した。


日本に戻ってからは、かつての壮士芝居から脱却し
『オセロ』『ハムレット』などのシェイクスピアの作品や児童劇を上演したり
近代的舞台装置を取り入れて、演劇の改革をするようになる。
この流れはやがて「新劇」へとつながってゆく。


1908年(明治41年)には、大阪の北浜に帝国座を開場する。
また同時期に帝国女優養成所を創設している。所長は貞奴
音二郎は完全に復活したのである。


海外公演を思い立たなければ、その後の復活のきっかけはなかっただろうし
また過去の栄光である壮士芝居にこだわっていれば、演劇界に名を残すことはなかっただろう。


1911年(明治44年)舞台で倒れ死去。享年47歳。
博多が生んだ演劇界の風雲児だった。


(参考文献)
西日本シティ銀行ふるさと歴史シリーズ「川上音二郎
Wikipedia 他
写真はWikipediaから借用したしました。



馬見山