*ミントの人物伝その41−1[第283歩・雪]

この土・日は山登りは無しでした。
雪道を歩きたかったですが。


ミントの人物伝(その41−1)


林則徐(りんそくじょ、1785-1850)
清時代の政治家、欽差大臣。


福建省閩侯県で生まれる。
父親は貧しい教師だったが、本人は学問に励み
1811年、27歳で科挙に合格。
地方行政官となると、農村の再生や治水問題に腕をふるった。
また、不正な行いをする官僚を大量に処分したという。
1837年には湖広総督になる。


清の時代である。
イギリスは、18世紀後半から中国との貿易で、茶・絹・陶磁器などを輸入していた。
特に茶はイギリスにとって重要で、輸入額が年々増大していた。
ところが、中国はイギリスの綿製品を買ってくれない。
中国は自国でほとんどの物を調達できたので、特に貿易の必要性を感じていなかったのだ。
貿易港も広東省の広州港のみに限定していた。


19世紀になり、貿易赤字がますます拡大してくると
イギリスは、インドで作らせた阿片(アヘン)を中国で販売することにより、問題の解決を図った。
阿片はもちろん麻薬である。

イギリス国内にも反対論があったというが、悪どいことをしたものだ。
これによりイギリスは輸出額が大きく増え、1827年にはついにアヘン貿易が茶貿易を逆転する。
イギリスは貿易黒字に転ずることになった。


当時の決済は銀で行なうので、中国から大量の銀が流出、物価が高騰して民衆の生活が苦しくなった。
また阿片中毒者が増えたことは、風紀の乱れや治安の悪化を招いた。
林が湖広総督になったこの頃の中国は、社会全体に阿片(アヘン)が蔓延していたのである。


−このままではいけない。阿片を取り締まらねば国が滅んでしまう−
管内の阿片の根絶に実績をあげた林は、もちろん厳禁論者(げんきんろんじゃ)であった。


他方、弛禁論者(しきんろんじゃ)という立場の人間もいて
「阿片は公認すればよい。そして輸入阿片に税金をかければ増収となる。
官僚や軍人が使用するのはまずいが、一般人が阿片を吸引するのはかまわない。
銀が流出するなら、銀での取引を禁止すればよいのだ」
などと主張していた。


1838年、ときの道光帝は、全国の地方長官に阿片対策について意見書を提出させる。
回答のあった29名のうち、弛禁論が21名、厳禁論は8名しかいなかったというが
その中で、林の意見書に注目した道光帝は、彼に興味を抱いた。


「この意見書は面白い。ただ厳しい取締りを提案しているだけではない。
具体的な実施方法を細かく提案している。彼に会ってみよう」


林と会った道光帝は、大いに気に入って連日の面談をした。
林は呼び出される都度、待遇が良くなる。
ついには、広い紫禁城を移動するのに、騎乗や駕籠(かご)まで許されたという。


林との話し合いを重ねて、ついに道光帝は阿片の取締りを決意する。
そして彼を欽差大臣(きんさだいじん)に任命するのである。
これは、皇帝と同等の権限をもつ特命大臣のことで大出世だった。


阿片を取り締まるため、林は北京から広州に派遣される。
ここで林らしいエピソードがある。
彼は、広州までの街道沿いの府県の長官に手紙を出した。


「何月何日に何人でそちらを通過するが、必要な食事以上の用意をするな。これは命令だ」


当時は、中央の大官が地方に出向くときは、接待や賄賂を受けるのが当たり前だった。
しかしその費用は、最終的に税金として、民衆に負担がかかる。
林は地方長官を長く務めていたので、そのことを良く知っていたのだ。


−今度の欽差大臣は清廉潔白な人物である−
このうわさはすぐに広州に伝わった。


(続く)


(参考文献)
Wikipedia
写真はWipipediaから借用しました。