*ミントの人物伝その44[第315歩]

いたずら好きな少年だった。
「先生、エスカルゴにどうぞ」
こう言って、フランス人教官に渡した紙包みに入っていたのは
タツムリではなくカエルだった。
教官の悲鳴が教室中にひびきわたった。


ミントの人物伝(その44)


明石元二郎(あかしもとじろう、1864-1919)
旧陸軍軍人、大将、台湾総督。


現在の福岡県福岡市大名(だいみょう)で生まれる。
3歳のとき、黒田家家臣だった父親が割腹自殺をしたため
暮らしは楽ではなかったらしいが、教育熱心な母親のもとで育てられた。
ちょっとズボラでいたずら好きだったが、非常な秀才だった。


陸軍幼年学校、陸軍士官学校陸軍大学校と順調に進学。
特に語学が堪能で
フランス語、ドイツ語、英語、ロシア語を自由に話すことができた。


1894年(明治27年)は、彼にとっては転機となる年だった。
ドイツに留学を命じられ、初めての海外経験をする。
1901年(明治34年)、フランス公使館付き武官として赴任をする。
彼は重要な任務を帯びていた。
参謀本部は、ロシアとの衝突が不可避であると判断し
優秀な元二郎を工作員として、ヨーロッパに送り込むことにしたのである。


1902年(明治35年)には、日本とロシアの関係はますます緊迫の度を増していた。
この年、ロシアの公使館に赴任した元二郎から、参謀本部に要望があげられた。
「百万円の機密費を用意してほしい」


この金額は、当時の国家歳入の250分の1に相当した。
現在なら400億円に相当するという巨額なのだが
対ロシア戦に備え、工作費用としてぜひ必要だ、というのだ。


「明石はバカか、何を考えている」
という意見も一部にあったが、結局この金額を参謀本部は許可してしまう。
山縣有朋が元二郎を非常に評価していたようだが
当時の参謀本部首脳も、柔軟な考えを持っていたことが分かる。


1904年(明治37年日露戦争が勃発すると、元二郎はストックホルムに移り
スパイを操って、ロシアやフィンランド内の不平分子を扇動したり
革命家レーニンに資金援助をおこなったりした。
ロシア帝政に揺さぶりをかけたのだ。


これらは結果的に「血の日曜日事件」や「戦艦ポチョムキンの反乱」につながったので
ロシア帝政にとって大きな打撃となったのである。


結局ロシアは、戦争を続行することが困難になり
1905年(明治38年)、ポーツマスで講和に応ずることになる。


実はロシアは、戦争末期の時点においても、戦争自体に負けたとは思っていなかった。
旅順と日本海会戦でこそ負けたが
陸軍兵員はあいかわらず大量に、列車で東部戦線に送り込まれていた。
日露の戦力差は依然として大きかったのだ。
もしも元二郎の工作がなければ、戦争は長引いていただろう。
そしてロシアが態勢を盛り返していたのは間違いない。


元二郎はこうして見事に任務を果たしたのである。
「明石の活躍は戦場における一個師団に相当する」
と言われた。


帰国した元二郎は、機密費の残金27万円をきちんと返却して
清廉潔白なその態度は大きな賛辞を受けた。


その後、憲兵隊長として韓国に赴任したあと
1918年(大正7年)台湾総督となる。


台湾では情熱を持って、大規模な治水工事や法制度改革などに取り組む。
彼の主な業績は


台湾電力の設立
教育令の発令、高校の設立
縦貫鉄道中部海岸線の敷設
司法制度の改革
銀行の設立


などであるが、特筆すべきは
八田與一による烏山頭ダムの嘉南平野灌漑事業をこのとき決定していることだ。
http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20110323)


このように台湾につくした彼だったが
1919年(大正8年)体調を崩してしまう。
総督として赴任してからわずか1年半後のことだった。


死去したのは静養先の福岡でだったが、遺言通り台湾の地で埋葬された。
現在は台北郊外にその墓があり、現地人も含め、訪ねる人が絶えないという。


(参考文献)
 西日本新聞社図書資料 
Wikipedia  他
 写真はWikipediaから借用いたしました。    



[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230



***最近読んだ本***


「珍妃の井戸(ちんぴのいど)」(浅田次郎
蒼穹の昴」の続編ということで読んでみた。
確かに登場人物は共通しているが、内容的には独立しているので
この作品だけ読んでも話は通じる。
光緒帝の愛した妃(きさき)、珍妃は誰に殺害されたのか?
哀愁に満ちた歴史ミステリーである。
現在は引続き「中原の虹」を読んでいる。