*ミントの人物伝その47−1[第332歩]

50歳から転進した偉人中の偉人です。


ミントの人物伝(その47−1)


伊能忠敬(いのうただたか、1745-1818)
江戸時代の地理学者。
 

1745年(延享2年)上総国山辺郡小関村で生まれる。
現在の千葉県山武郡九十九里町である。
幼名は三治郎(さんじろう)


6歳のときに母が亡くなり、養子だった父が離縁されて
10歳のときに父の実家、神保家に引き取られる。


本好きだった三治郎は、神保家の土蔵に合った本を夢中で読んだ。
特にソロバンの本を熱心に読んで、複雑な計算の仕方をひとりで稽古したという。
やがて家族にも、彼がソロバン上手だと知られるようになる。


ある日幕府の役人が、年貢算定のためにやって来た。
ところが全員がソロバン苦手らしく、計算がはかどらない。
役人が、ソロバンの達者な者はいないか、と家の者に聞くと
三治郎が連れてこられた。
当初役人達は、「なんだ子供ではないか」と怒ったが
計算させてみると一度でぴたりと合ったので、驚くやら感心するやら。
以後、三治郎が計算を引き受けて、無事に仕事が終了する。
役人達は喜んで帰っていったという。


また三治郎は、寺子屋での勉強が終わったあと
算法を常陸にあるお寺の住職に習っていたが
わずか6ヶ月で住職の教えることがなくなったともいわれる。


三治郎は17歳になった。
父親は三治郎を医者にしたいと考えたが、三治郎はいやがった。
医者は自分の性分に合わない、と考えていたのだ。


ところが事態は三治郎の思いもよらないことになる。


ある日、父は彼に言った。
「佐原の伊能家が跡取りを欲しがっている。三治郎、伊能家に養子に行きなさい」


どうせこのまま神保家にいても厄介者だ。
聞けば伊能家は、佐原(現在の千葉県佐原市)の名家だという。
三治郎にとっても非常に良い話だった。


1762年(宝暦12年)三治郎は佐原の伊能家に入る。
妻になるミチは21歳。三治郎の4歳上だった。
婚礼を挙げて三治郎は
「伊能三郎右衛門忠敬(いのうさぶろうえもんただたか)」
と名を改める。


伊能家は大地主であり、酒造や運送業も経営していたが
ここ何年も主人不在のため、売上も頭打ちの状態になっていた。
忠敬は家族や親戚から、大きな期待をかけられていたのである。


期待に応えるべく、忠敬は一生懸命働く。
その甲斐あって、6・7年もすると、売上・利益ともに順調に伸び始めた。
少し時間にゆとりが出来ると、昔のように再び本を読み出すようになる。
特に関心があるのは算法の本だった。


1781年(天明元年名主になる。
1783年天明3年)利根川の堤防工事で尽力した功績を認められ、名字帯刀を許される。
1784年(天明4年)名主を指導する立場である村方後見になる。


またこの年から1787年天明7年)まで天明の大飢饉が起こったが
佐原村では飢え死にした者は一人もいなかった。
また、一揆や打ちこわしも起こらなかった。
名主だった忠敬らが、困っている人に米や金を与えていたからである。


天明の大飢饉を乗り切ったあと、忠敬は考えた。


−わしももう40を越えた。隠居生活に入ってもいい年齢だ。
長男の景敬(かげたか)は二十歳を過ぎている。家業を任せても大丈夫だろう。
隠居してじっくりと、好きな算法を勉学してみたいものだ−


そのころ江戸で知り合った仙台藩の医師、桑原隆朝(くわばらたかとも)から
天文暦学の勉学を勧められる。
天文暦学というのは暦(こよみ)を作るための学問だ。
忠敬は隆朝の意見にすっかり傾いてしまった。


1790年(寛政2年)45歳の忠敬は、領主に隠居を願い出たが許されなかった。
不満だったが、天文暦学に関する本をとりよせて学習を始める。


−隠居をしたら江戸に出て、一流の先生に学ぼう。
そのために今からやれるだけのことはしておこう−


この頃の忠敬は、寝てもさめても天文暦学のことで頭がいっぱいだった。


1794年(寛政6年)ようやく隠居が許される。
ついに長男の景敬に家督を譲って、江戸に向うことになった。


−さあ、新しい人生の出発だ−


忠敬49歳のときである。


(続く)


(参考文献)
「天と地を測った男」岡崎ひでたか
 Wikipedia
 写真はWikipediaから借用しました。


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230