*ミントの人物伝その47−2[第333歩]

彼の勉学への情熱は、何歳になっても衰えることはありませんでした。


ミントの人物伝(その47−2)


伊能忠敬は江戸の深川黒江町に居を構える。


−これで思う存分勉強が出来る。
誰か当代一流の先生に弟子入りできないだろうか−


そんなことを考えていたら、運の良いことに桑原隆朝が
高橋至時(たかはしよしとき)を紹介してくれるという。
彼こそは幕府暦局「天文方」の責任者であり
暦学における当代随一の学者である。
ときに1795年(寛政7年)、伊能忠敬50歳、高橋至時31歳


至時は最初、忠敬の入門願いを聞いたとき、すぐに断るつもりだったらしい。
天文暦学は金持ちの隠居が道楽気分で勉強できるものではない、と思っていたのだ。
ところが実際に忠敬に会って話してみると
彼が教養が豊かで、しかも勉強熱心であることが分かった。
またすでに天文暦学の本を二十近く読んでいることにも驚いた。
忠敬は入門を許される。


忠敬は暦局に通い、間重富(はざましげとみ)から天体観測の方法を学ぶ。
このあと忠敬は自宅に小さな天文台を作って、観測技術を身につけてゆく。
何でも徹底的にやらなければ気がすまなかった。


ある日、至時は講義のなかで語った。


「皆が知っているように地球は球形だが、その正確な大きさがまだ分かっていない。
それは子午線の長さが分からないからだ。もし、緯度一目盛の長さを測定できれば
子午線の長さや地球の直径を計算することができる。
これは世界中の学者がもっとも知りたがっていることだ」


忠敬は聞いて、これこそ自分の取り組むべき課題だ、と考えた。
さっそく計画を練った。


−深川のわしの自宅と、浅草の暦局はちょうど南北の位置にある。
しかも緯度は何回も測っているので、その違いは分かっている。
あとは自宅から暦局までの正確な距離を測ればよい。
そうすれば理論上、子午線の長さが計算できるはずだ−


彼は何度も歩測をくり返した。
忠敬の一歩は69cmだったという。
そしてその距離から緯度1度分の計算をした。
さっそく至時に報告するが、先生は首をかしげた。
努力は認めるが、
測定地二点の距離が短すぎるので不正確な数値ではないか
というのだ。
確かに二点間の距離が長いほうが良いのだが、当時の幕藩体制ではどうしようもない。
遠方に行くほど他家の領地である。
へたに測量などしていたら捕えられてしまうだろう。


ここで至時は驚くべきことを言った。


「伊能さん、蝦夷地に測量に行きませんか。今なら地図をつくるためと言えば
幕府も許可してくれますよ」


この頃ロシアはシベリア・カムチャッカへと領土を広げてきていて
さらには蝦夷地をうかがっていた。
それに対し、幕府には対抗しようにも蝦夷地の地図すらなかった。
地図を作るための測量だと言えば、きっと幕府も許可するだろうとの
至時の読みだったのである。


忠敬は至時の言っている意味が分かった。


「わたしで良ければ行かせてください。
地図を作ると共に、緯度1度分の距離も調べてまいります」


この瞬間、忠敬の後の人生が決定づけられることになった。


(続く)


(参考文献)
「天と地を測った男」岡崎ひでたか
 Wikipedia
 写真はWikipediaから借用しました。



[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230