*ミントの人物伝その47−3[第335歩]

彼はもともと地図を作りたかったのではありません。
緯度1度分の子午線の長さを確かめたかったのです。


ミントの人物伝(その47−3)


蝦夷地測量の許可を願い出た高橋至時伊能忠敬であったが
身分制度の厳しいこの時代だ。
当初幕府は、武士でない忠敬に、なかなか測量の許可をしなかった。
だが、1800年(寛政12年)になって、ついに許可が下りた。


忠敬は3人の弟子、2人の従者を連れて測量の旅に出発した。


<<第1次測量行程>>55歳
1800年(寛政12年)4月19日から同年10月21日まで(旧暦、以下同じ)−
奥州街道を北上し、函館まで行き、北海道の東南海岸を測量する。


忠敬はさっそく『御用』の旗を立てて測量を始めた。
彼らは奥州街道を毎日、風の日も雨の日も
9里(36km)から10里(40km)を歩いた。
13里(52km)以上歩くこともあったというからすごい。
忠敬は、いや当時の日本人は健脚だったとつくづく思う。


測量の方法は
距離と方向を測り図の上で線に著してゆく『道線法』と
2つ以上の目標を定めて距離・方向をチェックする『交会法』である。
そのための器具として
杖先羅針(つえさきらしん)、中象限儀(ちゅうしょうげんぎ)、
梵天(ぼんてん、距離を測る竹の棒)

などが用いられた。


杖先羅針(杖の先の磁石で方向を測る器具)


象限儀(星の高度をはかる器具)


西別(現在の根室湾付近)まで行ったところで、サケ漁の真っ盛りの時期で
人足を得ることができずに江戸に引き返した。


江戸に戻った忠敬は、さっそく奥州街道蝦夷地東南部の地図を作り
幕府に提出する。
精緻な地図を見て驚いた幕府高官は、忠敬の力量を認め
すぐに2回目の測量許可を出したのだった。


<<第2次測量行程>>56歳
−1801年(享和1年)4月2日から同年12月7日まで−
江戸を出発して相模・下田方面の測量をする。
続けて東北地方の太平洋岸を北上し、青森まで行き引き返した。


第2次測量の地図が幕府に提出されると、忠敬の技術に対する信用が高まり
彼はぐんと待遇が良くなる。
実はそれまで幕府から支給された手当では、測量費用に全然足りなかった。
そのため忠敬は、不足分に自腹を切っていたのであるが
今後は、旅の費用に見合う手当が支給されることになったのだ。
またこの頃には、幕府の御用ということで
行く先々で、測量の協力を得ることが出来るようになっていた。


<<第3次測量行程>>57歳
1802年(享和2年)6月11日から同年10月23日まで−
男鹿半島三厩(みんまや)に行き、日本海沿いに新潟まで進んで
東北地方の西海岸の測量をする。


忠敬は第3次測量が終わった頃には、それまで念入りに測量と計算をくり返していたので
緯度1度分の長さについては自信があった。
彼は至時に言った。
「先生、今度こそ自信があります。
緯度1度分の長さは28里2分(110.74898km)で間違いありません」


これに対し至時は言った。
「伊能さん、疑うわけではないが、これで決定というのは慎重にしましょう」
忠敬が示した数値が、至時が予想していたものと、かなり違っていたせいもあった。


−わしは懸命に測量に取り組んできたのに、先生はそれを認めて下さらないのか−


忠敬は心が晴れなかったが、隊員達と第3次測量の地図作りにとりかかった。
蝦夷地の南東部、東北地方、江戸周辺、と
日本の正確な姿が次第に忠敬らの目の前に出現してゆく。


この頃になると幕府高官の間でも、日本の全体図完成への期待が高まってきていた。


−ひとまず緯度の長さのことは置いておいて、地図の作成に集中しよう−
気持ちを切り替えて忠敬は、再び地図測量の旅に向うことにした。


<<第4次測量行程>>58歳
−1803年(享和3年)2月25日から同年10月23日まで−
江戸から駿河、名古屋に行き、日本海に抜けて敦賀、金沢、富山、出雲崎佐渡
と進んで高崎経由で江戸に戻る。


糸魚川でのことである。
忠敬が、地元の協力がなっていない、として町役人を叱ることがあった。
これは彼の誤解だったのだが、それが幕府の役所に知られて大きな問題になった。


このとき師の至時は、懸命に幕府へのとりなしをしている。
そして忠敬に手紙を書いた。
「忠敬どの、あなたの大事業が小さなもめごとで取りやめになったら
 世の中にとってどんなに損失でしょう」


忠敬は手紙を読んで思った。
−自分は幕府の御用をつとめている、といささか思い上がっていたようだ。
世の中のためにと考えて、暦学も測量も始めたはずなのに・・−

そう反省すると共に、心の広い至時への感謝の念を新たにするのだった。


江戸に戻った忠敬は、まず暦局の至時を訪ねた。
糸魚川の件をまず詫びよう思ったのだ。


ところが会うなり至時は言った。
「伊能さん、あなたの出した28里2分という距離は正しかった。
ここに、最近入手したオランダの最新の天文学の本『ラランデ暦書』がある。
これに載っている数値が、伊能さんが出した数値とぴったり一致するのです。
あなたを信じることが出来なかったことをお詫びします」


忠敬はこれまでの努力が報われた気がして感慨無量だった。
彼の出した28里2分という数値は110.74898kmであり
現在測定される東京付近の数値110.952kmと較べても誤差はほとんどない。
これはみごとな精度であった。


さて高橋至時である。
以前から体調を崩しがちだったが、『ラランデ暦書管見』11冊を書き上げるなど無理がたたり
この年末から病の床につくことになった。
そして忠敬らの願いもむなしく
翌1804年(文化1年)1月にその生涯を終えてしまう。
享年40歳だった。


忠敬は深く悲しみながらも、それまでの4年間の測量結果をもとにして
『日本東半部沿海図』を完成させる。
1804年(文化1年)7月のことである。


(続く)


(参考文献)
「天と地を測った男」岡崎ひでたか
 Wikipedia
 写真はWeb、「伊能忠敬記念館資料」から借用しました。



[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230