これまで誰も見たことのない、正確な日本の地図が完成しようとしています。
ミントの人物伝(その47−4)
1804年(文化1年)伊能忠敬は幕臣にとりたてられ、西日本の測量を命じられる。
ついに全国地図の作成は幕府の国家事業となったのである。
<<第5次測量行程>>60歳・61歳
−1805年(文化2年)2月25日から翌1806年(文化3年)11月15日まで−
2年近くかかって中国地方の測量を行なう。
忠敬が健康を害したこともあって、それまでの測量と較べスピードが落ちてきている。
この第5次測量の時期、幕府の天文方下役と、忠敬の弟子達との間に対立が発生した。
忠敬は悩んだ末、やむなく平山郡蔵らの弟子を破門などの処分にしている。
平山郡蔵は優秀な弟子であり、永年測量の労苦をともにした仲間だった。
さぞかし苦しい思いだったに違いない。
<<第6次測量行程>>63歳・64歳
−1808年(文化5年)1月25日から翌1809年(文化6年)1月18日まで−
淡路島や四国沿岸の測量を行なう。
江戸に戻って休む暇もなく、その年の内に再び測量の旅に出かける。
さすがに年齢的な衰えが気になりだしたので
1日も早く全国測量を終わらせたかったのである。
<<第7次測量行程>>64歳から66歳
−1809年(文化6年)8月27日から1811年(文化8年)5月9日まで−
九州の中南部の測量を行う。
江戸に戻った忠敬を一人の男が訪ねてきた。
探検家としてすでに有名だった間宮林蔵(まみやりんぞう)である。
彼はこの2年前までに、間宮海峡を発見して樺太(サハリン)が島であることを確かめ
黒竜江(アムール川)流域の調査をしていた。
*間宮林蔵 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111101
林蔵は言った。
「お願いがあります。私に測量の仕方を教えてください。
蝦夷地をきちんと調べるためには測量技術が必要なのです」
忠敬は蝦夷地の測量が途中であることを気にかけていたが
体力的に、再び現地に赴くのは難しいと考えていた。
もし代わりに測量を行なってくれれば、こんなに有難いことはない。
「間宮どの、ぜひあなたに蝦夷地の測量をお願いしたい」
そう言って、忠敬は親身になって測量技術を林蔵に伝えたという。
技術を身につけた林蔵は、すぐに蝦夷地に出発した。
<<第8次測量行程>>66歳から69歳
−1811年(文化8年)11月25日から1814年(文化11年)5月3日まで−
足かけ4年かけて九州、壱岐・対馬や五島、種子島、屋久島の測量を行う。
この測量の間に忠敬にとってつらいことが続いた。
測量に同行していた弟子の坂部貞兵衛(さかべさだべえ)が病死したのに続き
息子の景敬(かげたか)の死の知らせが届いたのだ。
これらの悲しみも結局のところ、測量の仕事で乗り越えるしかなかった。
<<第9次測量行程>>70歳・71歳
−1815年(文化12年)4月27日から1816年(文化13年)4月12日まで−
八丈島までの伊豆七島の測量。
忠敬は当初自ら行くつもりだったが、荒波を越えてゆく船旅はあまりに厳しい行程だ。
説得されて、やむなく測量を部下たちに任せたのだった。
<<第10次測量行程>>70歳・71歳
−1815年(文化12年)2月と、1816年(文化13年)8月から10月23日まで−
部下達が伊豆七島の測量をしている同時期に、江戸府内の測量をする。
これが最後の測量となった。
ついに忠敬の長い測量の旅が終わった。
55歳から始めた全国測量の旅は16年間に及び
歩いた距離はじつに3万5千kmを越えている。
−我ながらよくやったものだ−
忠敬は道中の出来事や苦労をしみじみと思い返すのだった。
1817年(文化14年)忠敬は地図の作成に取り組んでいた。
天文方はすでに高橋景保(たかはしかげやす、至時の息子)に替わっている。
ここに蝦夷地測量を終えた間宮林蔵がやってきた。
林蔵が江戸を出発してからすでに5年が経過していた。
「お役に立てればよろしいのですが」
彼は蝦夷地の測量図を差し出した。
「間宮さん、有難う。よくやられました・・」
忠敬は喜びと感激であとは言葉にならない。
林蔵の測量は蝦夷地の沿岸だけでなく奥地にまで至っていた。
この蝦夷地の測量図を含めれば、真の全国図が完成する。
忠敬にとっては最高のみやげだった。
江戸亀島町(かめじまちょう)の屋敷で、地図作成を指導する忠敬だったが
病のため寝ていることが次第に多くなっていった。
余命が短いと悟った彼には心残りがあった。
それはかつて、心ならずも破門してしまった平山郡蔵のことだ。
迷った末、戻って共に働いて欲しい、と使いを出した。
やがて郡蔵が屋敷に姿を現した。
二人は黙って手を取り合い、目に涙を浮かべた。
1818年(文政1年)伊能忠敬 死去。
享年 73歳。
『大日本沿海輿地全図』が高橋景保らによって完成し
幕府に上程される3年前のことである。
現在、東京都台東区東上野の源空寺に、伊能忠敬の墓がある。
となりは高橋至時の墓だ。
死んでも至時のそばにいたい、というのが忠敬の最後の希望だったという。
(参考文献)
「天と地を測った男」岡崎ひでたか
Wikipedia 他
写真はWeb、および「伊能忠敬記念館資料」から借用しました。
[平成23年の記録]
http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231
[平成22年の記録]
http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230