*ミントの人物伝その49[第342歩]

秋風のような爽やかさを感じさせる人物です。


ミントの人物伝(その49)


張良(ちょうりょう、?-B.C.186)


軍師。
蕭何(しょうか)、韓信(かんしん)とともに
『漢の三傑』と呼ばれる。


韓の宰相の家に生まれる。
韓が秦に滅ぼされ家族が殺されると、
その復讐として始皇帝の暗殺を企てた。


行脚している始皇帝の輿(こし)を、
120斤(約30キロ)の鉄槌で潰そうというのだ。
さしずめハンマー投げのようなものだろうか。
怪力の力士に狙わせたが、
誤って後方の輿に当たってしまう。


「しまった、失敗だ」
彼は逃亡した。


下邳(かひ、現在の江蘇省)に行き、そこで太公望兵法書を学んだといわれる。
やがて挙兵した劉邦(りゅうほう、漢の高祖)に出会う。
会ってみて、劉邦こそが自分が仕えるべき主人だと確信し、
張良は軍師となって彼を支えるようになる。


項羽(こうう)との当面の対決を避け、関中に拠点を持って力を蓄えるように進言したのは
彼の最初の功績である。


なお下邳の時期、張良は誤って人を殺した項伯(こうはく)をかくまって助けている。
項伯は項羽の叔父だが、このことを非常に感謝して張良と友人になった。
このことが後年役に立つことになる。


『鴻門の会』は歴史上の名場面だが
このとき項伯は張良に、劉邦の命が狙われていることを伝え、注意しただけでなく、
項荘(こうそう)剣舞を舞いながら、隙あらば劉邦を切り殺そうとしたとき
自ら剣舞の相手をして、それを防いでいる。
つまり劉邦が危機を脱したのは、張良と項伯の親交があったからこそなのだ。


結局、劉邦項羽と対立し、天下を争うこととなった。
項羽はとにかく強かった。
ただ、項羽が戦う敵を容赦なく殲滅するのに対し、劉邦は寛容さを持っていたので
負けながらも次第に勢力が大きくなっていった。


B.C.202年、
項羽劉邦と和平を結んで故郷に戻ろうとした時のことである。
張良は参謀の陳平(ちんぺい)とともに進言した。
「今こそ追撃するべきです」
千載一遇の機会を逃すべきではない、というのだ。
そして劉邦は、垓下(がいか)の戦い項羽を破って
ついに天下を平定するのである。


劉邦が洛陽ではなく長安を都にしたことも張良の進言とされる。
高祖となった劉邦は言った。
「帷幄(いあく)の中で謀(はかりごと)をめぐらし、千里の外で勝利を決する点で
わしは張良に及ばない」


張良はのちの諸葛孔明を思わせるキャラクターだ。
智謀の軍師といって良いが、陳平のような陰湿さは感じられない。


彼は留公に任じられる。
恩賞が薄いようだが、彼が望まなかったのだ。
じつは高祖は天下平定のあと、次第に部下の謀反を疑うようになっていた。
その疑念をそらせようとしたのだろうか。


やがて彼は道教の神仙術に傾倒してしまう。
そして彼は静かに政治の表舞台から姿を消した。
まるで自分の役目は終わったかのようだった。


(参考文献)
 Wikipedia
 写真はWikipediaから借用しました。



[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230