*ミントの人物伝その51[第351歩]

車椅子の老人は墓に向かい合掌して言った。
「この年まであなたのことを忘れたことはありませんでした。
ようやくお礼を言えます」
老人の名はサムエル・フォール
サーの称号を持つイギリス人だった。


ミントの人物伝(その51)


工藤俊作(くどうしゅんさく、1901-1979)
日本海軍軍人。中佐。


山形県東置賜郡屋代村に生まれる。
1920年海軍兵学校入学。
1924年、海軍少尉。
1937年、海軍少佐。


1940年11月、
駆逐艦『雷(いかずち)』の艦長になり
太平洋戦争を迎える。


柔道の有段者であり185cm・95kgと大柄だったが、鉄拳制裁を禁ずるなど
性格は温厚で、部下たちに人望があったという。


1942年(昭和17年)3月1日、ジャワ島北東部のスラバヤ沖で
イギリス駆逐艦『エンカウンター』が日本の戦艦に砲撃される。
やがてエンジンが停止し艦は沈没してしまう。
乗組員は艦から脱出するが、海の上を漂流してしまうこととなった。


この海域を翌3月2日午前10時、駆逐艦『雷(いかずち)』が通りかかった。
そのとき重油にまみれ、20時間以上も洋上を漂う『エンカウンター』の乗組員たちは
体力を奪われ、絶望の淵にあった。


「艦長、多くの人が漂流しています。敵兵のようです」
工藤は言った。
「周りを確認しろ。潜水艦はいないか」


実はこの海域は、前月にイギリスの潜水艦により日本の艦船が沈められたばかりで
非常に危険とされていた。
そのまま通過するのが一番安全であり
漂流する敵兵は見逃してもやむをえない場面だったのだ。


だが、周りに潜水艦がいないことを確認すると、工藤は命令を下した。
「よし、全員を救出しろ。漂流者は一人も見逃すな」
艦のマストに救助中の国際旗が掲げられた。


−戦争でもフェアな状況で戦うのが真の武士道だ−
そう考えていた工藤は
目前で死にかけている人間を見逃すことはできなかったのだ。
海に飛び込むのもいとわず、部下達は必死で救出にあたった。
こうして422名が救出された。


「君達はゲストだ。安心しなさい」
工藤の流暢な英語に、イギリス兵達はほっと安堵した。
その中に若き日のサムエル・フォール中尉がいた。


「雷」の乗組員は220名だから、約倍の敵兵を助けたことになる。
イギリス兵たちはアルコールで身体を拭かれ、充分な水と食料を与えられた。


救助されたイギリス兵は、翌日、パンジェルマシンに停泊中のオランダ病院船
『オプテンノート』に捕虜として引き渡される。
「感謝の気持ちです。これしかないが受け取ってください」
一人のイギリス兵が工藤に自分のカバンを差し出した。
工藤は笑ってそれを受け取った。


終戦となり復員したあとも、工藤はこのことを黙っていた。
家族にも全く話さなかった。
人命救助は当然として、ことさらに誇る気持ちなどなかったのだ。
また工藤が「雷」の艦長から転出したあとのことだが、
「雷」は戦闘で沈没、乗組員が全員死亡してしまっている。
「雷」時代のことを思い出すのが苦痛だったのかもしれない。


時が流れ、工藤は1979年(昭和54年)に78歳で亡くなる。


2008年(平成20年)12月7日、
一人のイギリス人が埼玉県川口市にある工藤の墓にお参りをした。
サムエル・フォールである。
彼が著した回顧録により、工藤のことが世に知られるようになった。


先の大戦では日本人の悪い面ばかり強調されている気がするが
このような人物がいたことは誇りにして良いと思う。


工藤が死ぬまで愛用していたカバンは、かなり古くくたびれていた。
「なぜ新しいものに替えないのか?」と周りが尋ねても
「知り合いのイギリス人にもらった大事なカバンだよ」
と答え、笑っていたという。


(参考文献)
 Wikipedia
 写真はWebから借用しました。



[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230