*ミントの人物伝その52−2[第360歩]

彼はモンゴル史を語るのに欠かせない人物です。


ミントの人物伝(その52−2)


チンギスの後継者を巡ってクリルタイ(部族会議)が紛糾する。
チンギスの息子たちはそれぞれ優れた面を持っていたが
長男のジュチと二男のチャガタイとは仲が悪かった。
三男のオゴタイがその仲をよくとりもったので、チンギスは生前、
彼を大いに評価していたらしい。


楚材はチンギスの遺志を尊重して、オゴタイを即位させることに大きく貢献した。
結果、新ハーンにも書記として仕えることになった。


オゴタイ・ハーン


オゴタイがハーンとなってからのこと。
あるとき、ペチという大臣が進言した。
華北の大平原を無人にすれば遊牧に適した土地になる。
捕虜とした中国人は皆殺しにしましょう」


当時のモンゴル人は遊牧にこだわっていたのだ。
楚材は当然大反対した。


「住民を殺して遊牧地にするのはこれまでと同じやり方です。
住民を働かせれば、税として収益を上げることができます。
私に任せてもらえれば、税収を大いに伸ばして見せましょう」


楚材は中国人を対象にして戸籍を作り、戸単位に課税させた。
これは中国式の税制を導入したのだが
その結果、より安定して高い税収を得ることができるようになった。
オゴタイはこれを大いに賞賛し、ついに楚材は中書令(宰相)に任命されるのである。


オゴタイは4歳年下の楚材のいうことをよく聞いた。
二人は気が合い、立場を超えた友情もあったようだ。
ただ、酒の飲み過ぎを控えるように、との楚材の忠告については
オゴタイは最後まで従わなかったらしいが。


当時の勢力図


1234年、モンゴル軍が金の国都である開封を取り囲む。
このときもモンゴルの大将スプタイから
開封は頑強に抵抗したので屠城(とじょう)すべきだ、との意見が出た。
屠城とはやはり皆殺しのことである。
このとき開封には147万人の住民がいたという。


「住民の中には有能な技術者がいます。
生かして使えば必ずモンゴルのために役に立ちます」

ここでも楚材の必死の嘆願が認められ、
金の王族のみの処刑となり、町は大きな破壊をまぬがれた。


楚材により二度にわたって多くの人命が救われた。
彼がいなければ大変な悲劇が起こっていたに違いない。


楚材はモンゴルの攻撃性を野蛮であるとし、
軍人の力をできるだけ抑えるとともに、ハーン(皇帝)に権力が集中されるように取り組んだ。
その結果、着実にモンゴル帝国の基礎が固まってゆくことになる。


オゴタイが過度の飲酒のため死去したのちは
色目人(西域人)であるアブドゥル・ラフマーンが権勢を持つようになり
楚材の意見は退けられることが多くなってゆく。
しかし王族からは引続き敬われていたようだ。


1244年、楚材は現職のまま死去する。享年54歳。
オゴタイの死後三年目のことだった。


オゴタイのあとは、その子のグユクが跡を継ぐが
以降、ハーンの地位はオゴタイ家からチンギスの四男であるトゥルイの系譜へと受け継がれる。
やがてトゥルイの子フビライ南宋を滅ぼして、元(げん)を建国するに至るのである。


楚材は多くの人命を救い、中華文明をモンゴルの破壊から守っただけでなく
モンゴル帝国の基礎を作りあげることに大きな足跡を残した。
彼はまさしくモンゴルにとって『天からさずかった宝』だったといえるだろう。



(参考文献)
Wikipedia
「耶律楚材」(陳舜臣
「中国傑物伝」(同)
写真はWebから借用しました。



[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230



***最近読んだ本***


「中国傑物伝」(陳舜臣
作者が好みで選んだ、春秋時代から中華民国初期に至るまでの
16人の傑物のミニ伝記である。
登場するのは、すべて長編小説の主人公になりそうな人物ばかり。
一種の中国通史でもあり、興味深く読んだ。