*ミントの人物伝その53−2[第368歩]

『忠勝』の名は彼を良く表現しています。
忠は忠義の忠、勝は勝利の勝、
そして『ただ勝つのみ』の意味があるのかもしれませんね。


ミントの人物伝(その53−2)


1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いは、家康と羽柴秀吉との決戦だった。


長久手の戦いで、家康は池田恒興を敗死させ、局地的に勝利をおさめる。
それを知った秀吉は、三万八千の大軍を率いて
長久手の家康を叩くべく竜泉寺に移動をはじめた。
小牧山の本営にいた忠勝はこれを見て思った。
ー殿のいる本隊は今朝からの戦闘で疲れているはずだ。
いま秀吉の大軍に襲われたらとても太刀打ちできまい。
われらが秀吉の軍をしばらくでも足止めすれば、
殿も進退の時間をかせぐことができようー


忠勝は五百名を率い、小川をはさんで秀吉軍と並んで長久手方面に進んだ。
そして鉄砲を撃ちかけるなどして、さかんに秀吉軍を挑発した。
しかし秀吉はこれに応戦させなかった。


竜泉寺に十町(約1.1km)まで近づく。
ついに忠勝はみずから馬で川に乗り入れて
敵味方の見つめる中、悠然として馬の口を洗わせた。
ーわしに撃ちかけてみよー
戦闘の口火となるなら死んでもかまわぬ、という捨て身の覚悟だった。
じつに絵になる場面だ。


これを見た秀吉は、その男が家康の武将、本多平八郎だと知り
はらはらと涙を流して言った。
「五百足らずの兵をもってわが大軍の進行を少しでも遅らせようとする志、
その勇気と忠義さは比類なきものじゃ。あのような勇者は撃ってはならぬぞ」


これには後日談がある。
のちに天下人となった秀吉が忠勝を召したときのこと。
諸大名が並み居る前で秀吉は、長久手以来の忠勝の勇敢さと家康に対する忠義を褒め称えた。
「東の本多忠勝、西の立花宗茂こそ天下無双の大将である」
忠勝は非常に面目を施したといわれる。
立花宗茂http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20110403


秀吉が死んだあと、天下は再び騒然となってゆく。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで家康が勝利し、覇権を握るようになった。
この戦いでも忠勝の活躍があったことはいうまでもない。


ところで忠勝には娘の小松姫がいて、真田信幸(信之)に嫁いでいた。
信幸の父は昌幸、弟は幸村の名で知られる信繁である。


真田信幸


関ヶ原の戦いでは、真田昌幸・信繁の父子は西軍に属し
中山道を進む徳川秀忠軍を信濃上田城で足止めさせてしまった。
このため秀忠軍は関ヶ原の戦闘に結局間に合わなかった。
徳川家にとっては恨んでも恨み足りぬ二人だ。
死罪は当然とされた。


ここで信幸は義父である忠勝に
二人の助命を共に嘆願してくれないか、と依頼する。


忠勝は1601年(慶長6年)には桑名藩10万石に封じられていたが
彼はこの婿の才能を愛していたのでこころよく承知した。
忠勝と信幸は家康・秀忠に会い嘆願した。が、二人とも死罪を主張して聞き入れない。


ついに忠勝は言った。
「お聞き入れ下されないならば、それがし、殿と一戦つかまつる」
さすがの家康も口をあんぐり。


結局家康も折れて、二人は紀伊高野山九度山に蟄居と決まり
信濃上田領は信幸に与えられることになった。
忠勝は武勇に優れていただけでなく、情誼にも厚い性格だったことが分かる。
これはミントの好きなエピソードだ。


さて、世の中が安定してくると、吏僚派の家臣が重用されるようになってくる。
豊臣家における石田三成のような存在だ。
彼らは武断派とは肌合いが異なり、とかく対立するものである。
徳川家においても、次第に本多正信・正純などの実務派官僚が台頭してきた。


忠勝も本多正信や正純を嫌っていたが、時代の流れだろう。
次第に幕府の中枢から遠ざけられていった。


1609年(慶長14年)、家督を長男の忠政に譲って隠居。
翌年、死去する。享年63歳。


晩年、小刀で彫り物をしていたとき、うっかり手を滑らせて指に怪我をしてしまった。
「わしの命運もこれまでか」と嘆いたが、実際にその数日後に死去している。
多くの戦場でも手負いをすることのなかった忠勝の
最初で最後の負傷だった。


(参考文献)
Wikipedia
「徳川家臣団」(綱淵謙錠)他
画像はWikipedia から借用しました。



[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230


寒くなりました。
今月第1回目の忘年会の様子です。