*ミントの人物伝その54−1[第370歩]

これは自分の信念を貫いた医師の話です。


ミントの人物伝(その54−1)


高松凌雲(たかまつりょううん、1836−1916)
同愛社創立者、医師


凌雲は1836年(天保7年)筑後国御原郡古飯村
(福岡県小郡市)の庄屋の家に生まれる。
幼名は権平、のちに荘三郎。


少年の荘三郎は家を出て、兄の勝次を頼って江戸に行く。
このとき勝次は医師を目指して江戸で学んでいた。
荘三郎は兄の家で寄宿し勉学に励むことになる。
神田三河町の蘭方医石川桜所(おうしょ)の門で学ぶ。


1861年文久元年)石川の許可をもらい、大坂の緒方洪庵適塾に入門する。
ここで荘三郎は西洋の医学知識を深めただけでなく
オランダ語を自由に読み書き出来るようになった。


1865年(慶応元年)は荘三郎にとって転機になる年だった。
師の石川にしたがって京に随行するが
このとき荘三郎の学識を知った一橋家が、彼を表医師として招いたのだ。
荘三郎はそれを機に凌雲と改名する。
彼は当時の医師としては珍しく有髪にしていた。


さらに幸運なことに、一橋家の当主、慶喜が15代徳川将軍となったので
凌雲は幕府医官、奥詰医師と順調に出世してゆく。


1866年(慶応2年)29歳の凌雲は、
パリの万国博覧会に出席する徳川昭武随行員の一人として選ばれる。
昭武は徳川斉昭の子であり、、慶喜にとっては弟になる。
世情が騒然としていたが、慶喜は自分の名代として弟の昭武を博覧会に派遣し
各国との友好を深めることを希望したのだ。
凌雲は付添医師であったが、現地では留学生として自由に勉学することが許された。


ー最新の西洋医学を学べるよい機会だ。なんと幸運なことだろうー


1867年(慶応3年)1月、一行は横浜から出航する。
以降は主に海路をたどり、2月29日にフランスのマルセーユに入港する。
一行は蒸気車やガス灯、巨大なホテルなどの西洋文明に目を見張った。


博覧会は盛況で、幕府の展示館も非常に好評を博した。
博覧会が終了したあとは、昭武らは各国を歴訪する。
スイス・オランダ・イタリア・イギリスを訪問して大歓迎を受けた。
この間に日本から大政奉還のニュースが聞こえてきたが
昭武らにはどうすることも出来なかった。


パリに戻ったあとは、凌雲らは館外で居住することを許可された。
日本の政変が気にはなったが、いよいよ自由に勉学することが出来る、と思うと
凌雲はいやでも気分が高揚してゆくのを感じた。


翌日、入学許可を得ている病院兼医学校のオテル・デュウ(神の館)に行き
その日から通学を始めた。


凌雲は当初、フランス語が分からなかったが
懸命に学習したので、やがて講義の内容を把握できるようになった。
麻酔を使った手術や清潔で整頓された病室など、
実際の治療の面で学ぶことが多かった。


凌雲は『神の館』に、貧しい人を無料で施療する病院が付属しているのを知った。
建物は立派であるにもかかわらず、一切の経費は貴族、富豪、政治家などによる寄付で
まかなわれている民間病院だという。


ー素晴らしい。医学に携わる者はこのように高潔な精神を持つべきだー


凌雲は非常に感心すると同時に、
なぜこの病院が『神の館』という名前なのか、と病院の関係者に尋ねた。
このとき聞いた答えを凌雲は生涯忘れなかった。


「病院とは新しい生命が生まれ、また消えてゆく場所です。
ですから病院は神の宿る館なのです」


(続く)


(参考文献)
Wikipedia
「夜明けの雷鳴」(吉村昭
写真はWebから借用しました。


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230