*ミントの人物伝その54−2[第371歩]

凌雲は日本で最初の赤十字活動を行った人物です。


ミントの人物伝(その54−2)


『神の館』で学ぶ凌雲であったが、幕府が倒れそうとなれば
いつまでもパリに居続けるわけにはいかない。
帰国することになった。


1868年(慶応4年)5月、凌雲たちは横浜に到着する。
しかし日本を離れた1年半の間に故国は一変していた。
すでに幕府は崩壊し江戸城は長州、薩摩により占拠され
徳川慶喜は水戸に退き謹慎していた。


凌雲は慶喜に仕えるべく水戸に行くことも考えたが
あくまで政府軍と戦うのが旧恩にむくいる道だと思い直した。
彼は幕府海軍副総裁だった榎本釜次郎(武揚)と行動を共にすることを決心する。


凌雲は軍艦「開陽」に乗船する。
榎本艦隊は北上し、東北から蝦夷地をめざした。


同年10月26日には箱館にある五稜郭を占拠する。
榎本は蝦夷地を独立国とし、各国に承認を取り付けるつもりだったが
新政府がこれを認めるはずがない。
政府軍の攻撃は目の前に迫っていた。


五稜郭


箱館には1861年文久元年)に建てられた医学所があったので
凌雲は早速これを箱館病院として接収し、住み込みで負傷者の治療を始めた。


やがて凌雲は、箱館病院の頭取になってほしい、と榎本に頼まれる。
彼は病院の運営を全面的に任せてくれることを条件に
これを引き受けた。


11月6日、農民が6名の負傷者を運んできた。
ところがその者たちは榎本軍ではなく政府軍の兵士だった。
凌雲は病室に運び入れたが、すぐに騒ぎとなった。


「なぜ敵兵を病室に入れた」
「戦死した友の敵だ。殺す」


詰め寄る者達の前に立って凌雲は言った。
「私はこの病院の頭取であり、一切の権限を任せられている。
負傷者の治療については私が決める。たとえ敵であっても負傷者は負傷者だ」

さらに続けた。
「もし不服があるなら、その者はただちに退院しなさい」
銃刀を持って詰め寄っていた者たちは凌雲の言葉にひるみ
やがて自分の寝台に戻っていった。


凌雲が敵味方にかかわらず治療をしたことは、日本の歴史上でも画期的なことであり
赤十字活動のさきがけというべきものだった。


なおこのうち5名は無事回復し(1名は死亡)
翌1869年(明治2年)正月、凌雲のはからいで故郷に戻されている。
見送る凌雲に、船上の5人はいつまでも手を振り続けたという。


同年の4月から政府軍の攻撃が始まった。
兵数火力ともに優勢な政府軍の攻撃に、榎本軍は次々に拠点を失う。


5月11日、ついに政府軍が箱館病院にやってきた。
殺気にはやる兵たちを前にしても凌雲はひるまなかった。


「ここは病院だ。見てのとおり動きもままならぬ者ばかりで、
諸君に敵対する者などいない。
傷が癒えればいかなる処罰でも受け入れる。どうか助命を願いたい」


兵たちは薩摩藩士が中心だったが、隊長は凌雲の堂々とした態度に感服し
建物を改めるだけで引きあげていった。
兵らが引きあげたあと、思わず凌雲は座り込みそうになった。
堂々と振舞ってはいたが非常に緊張していたのである。


5月18日、ついに榎本総裁以下全員が降伏し
ここに鳥羽伏見以来続いた戊辰戦争終結した。


(続く)


(参考文献)
Wikipedia
「夜明けの雷鳴」(吉村昭
写真はWebから借用しました。


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230