*ミントの人物伝その55−1[第381歩]

明治時代の日本は栄光の時代だったと思います。
これはその栄光の時代を生き抜いた人物の話です。


ミントの人物伝(その55−1)


金子堅太郎(かねこけんたろう、1853−1942)
明治期の官僚、政治家。


1853年(嘉永6年)
筑前国早良郡鳥飼村(現在の福岡市中央区鳥飼)で
福岡藩士、金子清蔵の子として生まれる。
ペリー来航の数ヶ月前だ。
幼名は徳太郎。


やがて藩校である修猷館で学ぶ。
当時の修猷館身分制度が厳しく、どんなに成績が良くても下級武士の金子は
上士階級より上に評価されない仕組みだった。
彼はこれを不満に思ったが、それをバネにして勉学に打ち込んだ。


やがては金子は優秀さが評価され、秋月藩や東京に遊学することになる。


東京でやはり福岡藩の秀才だった年下の団琢磨(だんたくま)と知り合う。
彼はのちに三井財閥の大番頭となる人物だ。
2人は仲良くなり一緒に英語を勉強したという。


明治時代の日本は政府をあげて開化政策をすすめていた。
なので、皇族・華族も積極的に海外に留学していた。
最後の福岡藩主である黒田長知(くろだながとも)もその一人だった。
一緒に留学生を出そうということになり、金子は団とともに選ばれることになった。


彼らは岩倉具視(いわくらともみ)の遣外使節団に同行することとなる。
ときに1871年明治4年)、金子は18歳だった。


アメリカのボストンで使節団と別れた金子は、英語力のなさを痛感し
小学校(グラマー・スクール)に入学して基礎から学び直すこととしたが
すぐに飛び級で卒業。
中学校(ハイスクール)も中退し、ハーバード大学の法学部に入学する。
法律、憲法国際法を専攻した。
ちなみに団はマサチューセッツ工科大学に入学し鉱山学を学んでいる。


金子はハーバード時代に多くの知己を得た。
相手は政治家・文学者・ジャーナリストなど、さまざまな分野で活躍する人々である。
グラハム・ベルもその一人。


アレキサンダーグラハム・ベル


信州人の井沢修と二人で、ベルの家に遊びに行ったときのこと。
当時のベルはまだその研究が評価されず、粗末な狭い下宿屋に住んでいた。


「おお、日本の人が来てくれた。ここにわしが発明した機械がある。
人の声を電気の力で伝える機械じゃ。何か話してみてくだされ」


金子は別室にいる井沢に伝えようと、電話機に向って日本語で話しかけた。
まだ標準語が定まっていない時代だ。
多分二人は博多弁と信州弁で会話をしたのだろう。
そう思うと少しおかしい。


金子は同級生のセオドア・ルーズベルトとも親しくなるが
これが後年の日本にとって、非常に重要な意味を持つことになろうとは
神のみぞ知ることだった。


1878年明治11年)に帰国。
やがて政府に出仕して
7年後には総理大臣伊藤博文(いとうひろふみ)の書記官となる。


伊藤は、日本が近代国家として列強諸国に評価されるためには
憲法を制定しなければならない、と痛感していた。
1885年(明治18年)頃から憲法制定のための作業が始まったが
その起草委員として3人の俊才が集められる。


井上毅(いのうえこわし)
伊東巳代治(いとうみよじ)

そして金子堅太郎の3人だった。


伊藤とこの3人がプロシア憲法を手本にして作業を進めた。
金子は法律専門家なので中心になったのは間違いないだろう。
作業は大日本帝国憲法明治憲法)だけでなく
皇室典範、諸法典と広範囲だった。


1889年(明治22年)ついに明治憲法が発布される。
そして翌年に施行されることとなるのである。


(続く)


(参考文献)
Wikipedia
「博多に強くなろうシリーズ、金子堅太郎」(西日本シティ銀行)
写真はWebから借用しました。


[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230