*ミントの人物伝その55−2[第382歩]

金子は生涯に二つの大きな業績を残しました。
一つは明治憲法の起草
そしてもう一つは日露戦争の講和における働きです。


ミントの人物伝(その55−2)


明治日本は日清戦争(1894〜1895年)で勝利したあと
朝鮮半島を自国の保護下におこうとして、帝政ロシアとのあつれきを次第に深めてゆく。


一方で1902年(明治35年)には日英同盟が成立する。
当時のイギリスは、中央アジア・中国の権益をめぐってロシアと対立していたので
『栄光の孤立』を捨てて、あえて東洋の日本と手を組んだのである。
これにより日本・イギリス対ロシア(フランス)という国際関係が明確となるが
極東の紛争にまでイギリスが介入することは出来なかった。


日本対ロシアの対立が決定的になり
その戦争が決定した1904年(明治37年)2月4日、御前会議のあとのこと。
金子は伊藤博文に言われた。


「大変なことになった。わしはロシアとは戦争をすべきでない、と言っていたのだが・・。
 決まったことは仕方がない、すまんが君、アメリカに行ってくれんか」


伊藤が金子に頼んだことは
アメリカ国民の同情を喚起して、戦争債の引受けを円滑にすること。
適当な時期に、セオドア・ルーズベルト終戦の仲介を依頼すること。

この2点だった。


セオドア・ルーズベルト


ルーズベルトは1901年に、史上最年少で第26代アメリカ合衆国大統領となっていた。
伊藤は金子とルーズベルトが学友であることを知っていたのだ。
金子は自信がない、と一旦は断るが
伊藤の必死の懇請に、結局引き受けることになった。


金子はアメリカに出発する前に
児玉源太郎(こだまげんたろう)と会って話を聞いてみた。
このとき児玉は陸軍参謀本部次長である。
児玉は金子に言った。


「この戦争、(日本が勝つ確率は)せいぜい五分五分だろう。
 だが何とか六分四分にまでもって行きたい。
 君がその時点でルーズベルトに仲介を頼んでくれ」


児玉源太郎http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20110610


ーとにかくやれるだけやってみようー
金子は決心し
2月24日に日本を出発した。
すでに仁川沖で戦争が開始されている。


3月26日にワシントンに到着。
そこではルーズベルトが待っていた。


「なぜ早く来なかったんだ、僕は日本を応援している。
 世界の平和のためにも、ぜひとも日本に勝ってもらわねばならん」


当時のアメリカは、帝政ロシアのとめどない膨張に対する危機感があったのだ。
またルーズベルト自身、武士道に興味を持つなど、非常な親日家でもあった。
彼の支援のもと、金子はアメリカ各地で講演を行なった。
金子自身も、日本支援の気運が次第に大きくなってゆくのを感じることができた。


戦争は続いている。
日本は勝ち続けた。
1905年(明治38年)1月、旅順占領。
同年3月、奉天会戦で勝利。
同年5月には日本海海戦で、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)率いる日本の連合艦隊
ロシアのバルチック艦隊を全滅させる。


ところがここに至って、日本にはもはや戦争を続行する余力はなかった。
今なら日本が勝った形で講和に持ち込むことが出来る。
ここに児玉の言う講和の前提が整った。


ルーズベルトは講和の仲介を引き受けてくれた。
日本政府の依頼ではあったが、金子とルーズベルトとの友情がものをいったのは間違いない。


アメリカのポーツマスで取りかわされた講和条約により
日本は南樺太の割譲を受けたほか
朝鮮半島や旅順・大連の権益など一定の成果を得ることができた。


ミントは思う。
開戦の時点で引き際を考えていた明治の政治家・軍人は偉大だったと。


東郷平八郎の強運
児玉源太郎の智謀
明石元二郎(あかしもとじろう)の諜報 
金子堅太郎の人脈


この四つが日露戦争における日本勝利のポイントだったと思う。
4人とも皆名前に『郎』が付くのが面白い。


明石元二郎http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20120616


金子はやがて伯爵にまでなる。
明治日本における福岡出身の政治家では最高位だった。


晩年の金子は日米開戦を最後まで憂慮していた。
ルーズベルト親日家であったように、彼自身もまた親米家だったのだ。


1942年(昭和17年)5月17日死去。享年89歳。
彼はペリー来航の年に生まれて
太平洋戦争が勃発し、日本軍がまだ優勢な時期に死亡している。
日本の敗戦を見ずにすんだのは、幸いだったかもしれない。


(参考文献)
Wikipedia
「博多に強くなろうシリーズ、金子堅太郎」(西日本シティ銀行)
写真はWebから借用しました。



[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230