*ミントの人物伝その58−1[第396歩]

日新斎は孫の一人を評してこう言った。
「雄武英略を以て他に傑出する」と。


ミントの人物伝(その58−1)


島津義弘(しまずよしひろ、1535−1619)
九州を席巻した島津の猛将。
薩摩島津氏第17代当主。


1535年(天文4年)、薩摩にて島津家当主島津貴久の次男として生まれる。
義弘は勇猛であるだけでなく、学識豊かな武将に育つ。
兄は義久(よしひさ)。弟に歳久(としひさ)家久(いえひさ)。


さて日新斎と号した島津忠良という人物がいる。
義弘たちの祖父である。
この忠良は、島津分家から勢力を拡大し本宗家を手中にした、島津氏中興の祖と呼ばれる傑物だった。


忠良は、いずれも優秀な四人の孫を
「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て他に傑出し
歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」

と評し、大いに期待していた。



1568年(永禄11年)、忠良は加世田にて死去するが
死の床で、忠良は義弘ら四人の孫に言った。
「かつて島津家当主は三州の守護に任じられていた。
だが今は薩摩一国すらまとめていない有様。わしはそれが心残りでならぬ」

三州というのはこの場合、薩摩、大隅、日向のことである。


これに義久が答えた。
「わたしには優れた三人の弟がおります。
四人が力を合わせて必ずや三州統一を成し遂げましょう」

兄弟達はそれぞれアクが強かったが、義久の指揮のもと、合戦における結束力の強さは無類だった。


義久が第16代当主として家督を継ぐと、兄を補佐する義弘の活躍が始まる。
1570年(元亀元年)、東郷氏を降伏させ薩摩を統一。


1572年(元亀3年)、木崎原(きざきばる)合戦では
伊東義祐が三千の大軍を率いて攻めてきたのに対して、義弘は三百の寡兵で奇襲し、
これを打ち破るなど勇猛ぶりを発揮した。
1577年(天正5年)には伊東義祐を日向から追放。
ここに念願の三州統一が完成した。


「兄者、こうなれば九州全土を平定しようではないか」
国内統一のエネルギーは、成就した後は外部に向けられるものだ。
島津は引き続き九州全土の覇業に乗り出した。


しかし当時の九州は豊後に大友宗麟肥前龍造寺隆信がいたので
当然、島津と対立することになる。
さしずめ九州版三国志といったところだ。


1578年(天正6年)、耳川の合戦大友宗麟に勝利。
1584年(天正12年)、弟の家久が沖田畷(おきたなわて)合戦龍造寺隆信を敗死させる。
家久も野戦の名手である。
彼がこのとき採った戦法は『釣り野伏(つりのぶせ)』と呼ばれる一種の伏兵戦術だった。
1585年(天正13年)、義弘は肥後国守護代として八代に入り、阿蘇氏を攻めて降伏させる。


1586年(天正14年)、島津は大友宗麟の本国である豊後にまで攻め込み、ついに府内城を占領する。


怒涛の勢いだった。
九州全土統一も時間の問題と思われたときに、島津にとって思わぬ強敵が現れた。
豊臣秀吉である。


(続く)



(参考文献)
「歴史人」(KKベストセラーズ
  Wikipedia
  写真は Wikipedia から借用しました。



[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230



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