*ミントの人物伝その58−2[第397歩]

島津軍は鬼兵とも恐れられましたが、確かにその強さは際立っていました。


ミントの人物伝(その58−2)


さて大友宗麟はどうしていたか。
1578年(天正9年)の耳川合戦で島津に敗れて以来、大友家は滅亡の危機にさらされていた。
従っていた諸将は島津に寝返るものが続出。
大友家を支えるのは
戸次艦連(べっきあきつら、別名は立花道雪と、高橋紹運(たかはしじょううん)
二人の名将のみだった。
しかし艦連は1585年(天正13年)に病死。
島津勢は次々と大友領を蚕食してゆく。


1586年(天正14年)、瀕死状態の宗麟は豊臣秀吉に援助を求めた。


秀吉はこの時期、四国の長宗我部氏を降伏させており
次の九州平定を計画していた。
宗麟の要請に応える形で、秀吉は九州に出兵することにした。
ただし、当時の秀吉は三河徳川家康と敵対関係にあったため
大規模な援軍を送ることができない。
まず長宗我部・十河らの四国勢を豊後に派遣することにした。


一方勢いづく島津の軍勢は、
同年7月、高橋紹運が守る大宰府岩屋城を攻撃する。
約2万人の島津兵に対し、わずか763人で城を守った紹運は壮絶な討死を遂げる。
「敵ながらあっぱれ」
島津軍も紹運の死を悼んだという。


岩屋城の碑


同年12月、秀吉の命による長宗我部・十河らの四国勢が豊後に到着した。
しかし混成軍でまとまりもなかったようだ。
戸次川(べっきがわ)合戦で、島津軍はこの混成軍を敗走させている。


1587年(天正15年)、いよいよ秀吉の20万の大軍勢が九州に到着した。
島津軍は秀吉軍と日向根白坂で戦う。
義弘は自ら抜刀して、敵軍に斬り込むほどの奮戦ぶりを示したが、
兵力で圧倒的に優勢な秀吉軍にはかなわず、結局敗れてしまう。


義久は秀吉に降伏することを決意した。
だが義弘は徹底抗戦を主張する。


「兄上、わしは秀吉に降伏などせんぞ」


「義弘、残念だがこれからは秀吉の時代だ。まず考えねばならぬことは島津家の存続だ」
当主である兄からそう言われればやむをえない。
義弘も自分の子の久保を人質として差し出すことを決めて降伏した。


このとき義弘は、秀吉から大隅国を所領安堵されている。
意外にも義弘は秀吉に気に入られていたようだ。
またこの際に、義久から家督を譲られ島津氏の第17代当主になったとされている。


一時期九州全土を席巻する勢いだった島津家は
最終的に薩摩・大隅・日向一郡に封じ込められたのだった。



その後の義弘は豊臣政権に対して協力的である。
天正20年(1592年)からの文禄の役慶長の役のいずれも朝鮮へ渡海して参戦している。



特に慶長の役で義弘は活躍している。
1597年(慶長2年)7月、藤堂高虎らの水軍と連携して、朝鮮水軍を挟み撃ちにし、敵将・元均を討ち取った。
その後、10月末より泗川の守備に就く。
1598年(慶長3年)9月からの泗川の戦いでは、明・朝鮮約3万の大軍を
7,000人の寡兵で打ち破った。
義弘は「鬼石曼子(グイシーマンズ、鬼島津、の意)」として朝鮮・明軍から恐れられたという。



慶長の役における最後の大規模海戦となった11月の露梁海戦では
立花宗茂らともに順天城に孤立した小西軍救出の為に出撃する。
立花宗茂はあの高橋紹運の長男で、これもまた名将の誉れが高い武将。
明・朝鮮水軍の待ち伏せによって苦戦し後退したりもするが
朝鮮水軍の主将・李舜臣(イ・スンシン)を戦死させるなどの戦果を上げた。
またこの海戦が生起したことで海上封鎖が解けたため、小西軍は無事退却に成功している。
これら朝鮮での功により島津家は加増を受けた。


やがて秀吉が死去し、世は再び騒然としてゆく。


(続く)



(参考文献)
「歴史人」(KKベストセラーズ
  Wikipedia
  写真は Wikipedia から借用しました。



[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230



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