*ミントの人物伝その58−3[第398歩]

泗川や関ヶ原での勇猛ぶりから、島津軍はますますその威名を高めました。
このことが関ヶ原以降の島津家の運命に影響を与えます。


ミントの人物伝(その58−3)


1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦徳川家康石田三成との対決だが、より正確に言えば
三成に反発する勢力<東軍>と、家康に反発する勢力<西軍>との戦いだった。


石田三成


もともと義弘は、三成より家康と昵懇だった。
なので徳川家康会津征伐軍を起こすと義弘は家康から援軍要請を受けて
家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じた。
このとき島津軍は薩摩本国に集中していたので、義弘は約千人しか軍を率いていなかった。


ところが元忠が、家康から義弘に援軍要請したことを聞いていない、として入城を拒否したため、
やむなく当初の意志を翻して西軍への味方を決意する。
この時期、畿内にいる武将が中立の立場をとったり、日和見をすることは不可能だった。



西軍に参戦した義弘を石田三成は冷遇した。義弘の手勢が少なかったことも原因だろう。
美濃墨俣での撤退時には、前線に展開していた島津隊は見捨てられたという。
義弘は次第に三成に対する不信・不満をつのらせていった。


合戦直前の作戦会議において義弘は提案した。
「東軍は遠征で疲れている。夜襲をかけるべきだ。
そうすれば敵を混乱させ有利な状況に持ち込むことができる」


しかしこの提案は退けられてしまう。
三成は言った。
「この戦いは正義の戦いである。堂々と戦い堂々と家康を打ち倒すのだ」


ーばかばかしい。敗けたら正義もくそもあるものか。戦巧者の家康に対してなんと甘いことよー


元々すすんで西軍に参加したわけではない。
義弘は完全に戦意を失ってしまった。


関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いたが
戦意を失った島津軍は積極的に戦おうとはしない。
しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成軍や
小西行長軍、宇喜多秀家軍らが総崩れとなり敗走を始めた。
その結果、この時点で300人まで減っていた島津軍は退路を遮断され、
敵中に孤立することになってしまった。


この時義弘は、覚悟を決めて切腹しようとしていたが、甥の豊久の説得を受けて翻意し、
正面の伊勢街道からの撤退を目指して、前方の敵の中を突破することを決意する。


「いざ、故郷(くに)に帰らん」
先陣を豊久、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。



島津軍は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破する。
このとき正則は、死兵と化した島津軍に逆らう愚を悟って、無理な追走を家臣に禁じたが、
福島正之は追撃して豊久と激戦を繰り広げた。


その後、島津軍は家康の本陣に迫る。
家康の肝を冷やしたところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。
しかし、戦場から離脱しようとする島津軍を徳川軍は執拗に追撃し続けた。



このとき島津軍は捨て扞(すてかまりと言われる壮絶な戦法を用いた。
これは、数人ずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、
それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すというものだ。

その結果、豊久らが義弘の身代わりとなり、多くの将兵も犠牲になったが
まもなく家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身は敵中突破に成功した。
生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったという。


この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。


(続く)



(参考文献)
「歴史人」(KKベストセラーズ
  Wikipedia
  写真は Wikipedia から借用しました。



[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230



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