*ミントの人物伝その58−4[第399歩]

秀吉・家康に敗れたにもかかわらず薩摩島津氏は生き残ります。


ミントの人物伝(その58−4)


義弘は関ヶ原から撤退したあと、周防国屋代島の日向泊(現・山口県大島郡周防大島町)で
立花宗茂と再会した。
朝鮮の役での活躍ぶりから、義弘はこの勇敢な青年武将を好もしく思い、
また宗茂も、父親を島津に殺されてはいたが、武勇に富み実直な人柄の義弘を尊敬していた。
親子ほどの年齢差の二人だが、義弘は改めて交誼を結び、両家の結束を確認している。


立花宗茂 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20110403


薩摩に戻った義弘は、国境を固め
徳川家康の攻撃に対する備えを始めた。
その一方で、全身全霊を傾けて家康との和平交渉にあたる。
ここは義弘のしたたかなところだ。


筑後柳河に戻った立花宗茂が攻められていると聞き、援助に駆けつけるが
時すでに遅く、筑後に到着する3日前に宗茂は降伏してしまっていた。
そして立花氏は改易処分を受けてしまう。


関ヶ原合戦での勝利により天下人となった家康は、西軍に加担した大名を次々と処分していた。
会津の上杉氏や中国の毛利氏などは大幅に領土を減らされているし
土佐の長宗我部氏も立花氏と同様に改易されている。
当然島津氏も同様の処分を受けるものと思われた。


1600年(慶長5年)9月、当主出頭要請を拒み軍備を増強し続ける島津家の態度に
怒った家康は、ついに九州諸大名に島津討伐を号令した。
黒田、加藤、鍋島勢を加えた3万の軍勢を島津討伐に向かわせるが、
家康は攻撃を命令できず睨み合いが続いた。


家康は考えていたのである。


ー本当は島津を取り潰してしまいたい。
だが島津家には1万を超える兵がいる。義弘が健在なうちは死に物狂いで抵抗するだろうー

関ヶ原での死兵と化した島津兵の戦いぶりは記憶に新しいところだった。


そして豊臣家の存在だ。
大坂城には豊臣秀吉の子秀頼がいる。
もし島津との戦いが長引けば、幼い秀頼を擁立し、徳川に抵抗する外様大名が出てくるかもしれぬ。


家康はまだ幕府を開設しておらず、その政権基盤は十分に固められてなかったのだ。


家康は態度を軟化せざるを得ず、11月に遠征軍の撤退を命令した。
根負けした、といったところか。


1602年(慶長7年)に島津の本領安堵が決定され、義弘から忠恒への家督譲渡も承認される。
結局、島津氏は領土を一寸も削られることはなかった。


家康は島津を討てなかったことがよほど心残りだったらしい。
死に臨んで、遺体を薩摩に向けて葬るように遺言を残したとされる。
家康の憂いは250年後に、倒幕運動という形で現実のものとなる。


ーわが島津氏は本領を安堵できた。だが宗茂は・・ー
義弘は改易され牢人になったという立花宗茂のことが気がかりだった。


義弘はその後、大隅の加治木に隠居した。
折に触れ若者を教育したりの平穏な生活が始まった。
義弘は勇猛な武将というイメージが強いが
もともと愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格でもあったという。
平穏な生活を一番喜んだのは義弘の家族だったかもしれない。


エピソードをひとつ。
晩年の義弘は体が衰え、食事を摂ることも不可能だった。
そこで家臣が昼食のとき、「殿、戦でございます」と告げ、城外で鬨の声をあげさせた。
それを聴いた義弘の目は大きく見開き、普段からは考えられないほどの量の食事を平らげたという。


1619年(元和5年)島津義弘、死去。
享年83歳。


義弘が死ぬまで気にかけていた立花宗茂だが
この翌年、ついに筑後柳河藩主に返り咲いている。
関ヶ原合戦からじつに20年後のことだった。



(参考文献)
「歴史人」(KKベストセラーズ
  Wikipedia
  写真は Wikipedia から借用しました。



[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230



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