*ミントの人物伝その59−1[第422歩]

かつて未開地開拓と奴隷売買廃止のために
生涯を捧げた探検家がいました。


ミントの人物伝(その59−1)


デイヴィッド・リヴィングストン(1813− 1873)
イギリスの探検家、宣教師、医師。


1813年、スコットランドで敬虔なカトリック信者の次男として生まれる。
父親は茶の行商人で貧しかったが、デイヴィッドは紡績工場で働きながら
夜学でラテン語などを勉強する。


20歳のとき、中国から帰った宣教師の話を聞いて決心する。


−僕は将来、医療宣教師になって中国に行き、
飢えに苦しみ教育も受けられない中国の子供たちを救うんだ−


1836年、グラスゴー大学に入学。
夏は紡績工場で働き、冬に大学で勉強する。


1838年、ロンドンにて伝道協会の宣教師試験を受ける。
またロンドンで寄宿生活を送りながら、リスドン・ベネット博士から医学を学ぶ。


この頃中国はアヘン戦争前の混乱が始まっており、赴任するのが困難な
状況となっていた。
そんなある日デイヴィッドは、アフリカのクルマン伝道所長である
モファット博士の話を聞く機会があった。
彼はアフリカに注目し始める。


−アフリカは北と南は開けているが、中央は未知の世界だ。
イギリスの宣教師たちは南アフリカでの活動をしているが
布教を広げるためには、中央部に進んでゆくしかない。
そしてそこに住む原住民たちは貧しく、医療を必要としているようだ。
ここで働くのが私の使命ではないだろうか−


1840年、正式に宣教師に任命される。
またこの年にはグラスゴー大学で医学の学位を取得する。
準備は整った。
デイヴィッド(この後はリヴィングストンと表記する)は、ついにアフリカ行きを決心した。


12月8日、ロンドンを出発、汽船のジョージ号に乗りアフリカに向かう。


年が改まりケープタウンに到着する。いよいよアフリカだ。
だがケープタウンの伝道所や教会では、原住民を差別する教員や牧師たちの言動に
リヴィングストンは腹を立てるばかりだった。
彼は原住民に神の教えを伝えること、医療を施し病苦から救うことのみを希望しており
差別意識など持っていなかったのである。


リヴィングストンは、ポートエリザベスに上陸し、従者たちとクルマンに向かった。
道中は楽しかった。原住民の食べ物を食べ、夜は星空の下で眠った。



2ヶ月ほどしてクルマンに到着する。
モファット博士は不在だったが、ここでは様々な部落の人たちが住んでいた。
リヴィングストンは原住民の病気を治療するかたわら、その言葉を学んでいった。


リヴィングストンは、病気を治した原住民の酋長セチェレから耳よりな話を聞いた。
北方のリンヤンテに行けば大酋長のセビチュアネがいる。
彼に頼めば、北部の拠点となる伝道所の候補地を教えてくれるかもしれない、というのだ。
ただリンヤンテに行くには、白人が未踏のカラハリ砂漠を横切ってゆかねばならない。
いつかたどり着けるのだろうか?


リヴィングストンはまず、クルマン付近に伝道所を作ろうと考えた。
土地を調べた結果、クルマンの東方にマボツァという村を発見する。
高地だったので湿度も低く健康に良い。早速、原住民たちの協力で伝道所建物が作られた。
そして彼は宣教師のエドワーズとともにマボツァに住み、伝道を始めた。


ある夜のことである。
ライオンが部落の家畜を襲うことが続いたので、リヴィングストンは銃を携え退治に出かけた。


岩場にいるライオンを発見し、リヴィングストンは発砲した。
弾は命中したのだが、必死のライオンはリヴィングストンに襲いかかってきた
猛獣の牙が容赦なく彼の左肩をかみ砕く。
ライオンは死んだがリヴィングストンは重傷を負ってしまい、クルマンで養生することとなってしまった。


ときに1843年、アフリカへ渡って2年が経過し、彼は30歳になっていた。


地図(かなり不正確で見づらいですがご了解下さい)


続く)



[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


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