*ミントの人物伝その59−2[第423歩]

奴隷売買を目撃したことは、その後の彼の生涯を決定づけることとなります。


ミントの人物伝(その59−2)


地図(かなり不正確で見づらいですがご了解下さい)
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1844年、傷の癒えたリヴィングストンはモファット博士の娘メアリーと結婚する。
クルマンに来ていた彼女と親しくなったのだ。


マボツァに新居を構えたが、エドワードと意見が対立したこともあり
やがて一家はクルマン近くのセチェレの村に移る。
ここでは長男のバーが誕生している。


しかし落ち着いた日々は長く続かなかった。
日照りが続いて作物が実らないばかりか、ボーア人(オランダ人の入植者)の
襲撃から逃れるため、村ごと引越ししなくてはならなくなった。
ボーア人は原住民を迫害していたばかりか、イギリス人とも仲が悪かったのである。


1847年、リヴィングストンらはモボツァのさらに北方にあるコロベングに移住をした。
ここで2年ほど平穏な日々を過ごしたが、再びボーア人の襲撃を受けるようになった。


リヴィングストンはここでかつてセチェレから聞いた話を思い出した。


−北方のリンヤンテにいるセピチュアネを訪ねてみよう。
伝道に適した場所が見つかるかもしれない−


聞けばセピチュアネはうわさを聞いて待ってくれているという。
1849年、リヴィングストンは知り合いになった狩猟家のオスウェルらとともに
リンヤンテをめざし出発した。
メアリーや子供たちも一緒だった。


カラハリ砂漠


カラハリ砂漠を越え、荒れ地を抜けて六週間。
リヴィングストンらは美しいゾウガ川に着く。
この川はヌガミ湖から流れ出ている川だった。


8月1日、リヴィングストン一行はヌガミ湖の岸辺に立っていた。
湖は水平線が遠くまで広がっており美しい。


リヴィングストンは思った。


中央アフリカは砂漠などではない!きっと多くの河川が流れているのだ−


やがてマコロロ部族の領土に入り、その大酋長セピチュアネと面会した。
セピチュアネは大いに歓迎してくたばかりか
リヴィングストンの伝道所開設に協力しよう、と言ってくれた。
なおこのマコロロ部族は、後々までリヴィングストンに協力してくれる存在になる。


こののち2年ほどコロベングとリンヤンテを往復したが
リヴィングストンはマコロロ人の村は伝道に適した場所ではない、と思い至った。
そこは低湿であり熱病が多発していたし、
せっかく親しくなった酋長のセピチュアネが病没してしまったこともあった。


この頃リヴィングストンは、奴隷売買を目の当たりにして大きなショックを受けている。
この時期、公海における奴隷貿易は禁止されていたが
巨額の利益を生む商行為として、実際には引き続き行われていた。
彼は非人道的な奴隷制度にはもちろん反対だったのである。


奴隷商人たちの暗躍が一番の原因だが、原住民たちの抗争で生まれた捕虜たちが
売買されている実態もあった。


中央アフリカの河川を使った交易で、原住民たちの生活を向上させられないだろうか。
そうすれば原住民同士の争いもなくなり悲惨な奴隷売買もなくなるに違いない−


彼は中央アフリカを走る河川を探検しようと決心する。


そんな中、メアリーは3番目の息子を生んだ。
子供たちは原住民の子供と楽しく遊んでいるが、とても文明的な生活とは言えない。
メアリーは不平や不満を言わなかったが、リヴィングストンは家族をイギリスに
返すことを決心する。
−自分の義務を果たすためとはいえ、家族を犠牲にしてはいけない−
彼はそう考えたのだった。
1852年4月、リヴィングストンは家族と別れを告げる。


リヴィングストンはまず、コロベングから西海岸のルアンダまで向かうことを決心する。
セピチュアネのあとを嗣いだ息子セケレトゥは好青年で協力的だった。
彼らの協力を得て、前人未到の困難な旅が始まった。


密林、沼地、ツェツェバエマラリア、敵意ある原住民たちなどと立ち向かいながら6ヶ月。
1854年5月、ついにポルトガル領のルアンダに到着した。
ここで一行は大歓迎を受ける。
しかしリヴィングストンには次の目的がある。
このあとはリンヤンテから東に向かってザンベジ川沿いをたどってみよう、と考えた。


続く)



[平成24年の記録]
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