1回目の探検でやめていれば安楽に生涯を送れたかもしれません。
しかし彼はそれを望みませんでした。
ミントの人物伝(その59−4)
アフリカに発つ前年、リヴィングストンは伝道協会を辞めた。
両者の探検に対する考えの違いが表面化してきていたし
政府から正式に『アフリカ東海岸のイギリス領事』に任命されたので
探検資金の目途が付いたこともあった。
1858年、カーク博士、弟のチャールズ、メアリーと共にアフリカに旅立った。
この第2次探検は、リヴィングストンにとって苦いものとなった。
まずイギリスを発ったときから、メアリー夫人が病気になった。
やむなく彼女をクルマンに残し、ザンベジ川河口から川を遡上する。
ザンベジ川河口からアフリカ中央部に達する航路を発見することが目的だったが
その結果分かったことは、テーテの町から上流は航行不可能だという事実だった!
しかしあきらめるわけにはゆかない。
中央アフリカへのルートを探る探検は続く。
翌1859年にはシルワ湖、ニアサ湖を発見。
シルワ地方は気候も良く、伝道所を建設するのに適していると思われたし
ニアサ湖は中央アフリカの奥に通じているものと期待された。
リヴィングストンたちはボートや
ランチ『レディー・ニアサ号』でニアサ湖を探検する。
このランチは彼がグラスゴーで建造させ、アフリカに運ばせたものだった。
そんな日々を過ごすうちに
1862年4月、最愛のメアリー夫人がマラリアで死んでしまう。
−私のような探検家は結婚すべきではなかったかもしれない。
妻には申し訳ないことをしてしまった。−
リヴィングストンは悲嘆にくれるが、悲しんでばかりはいられない。
彼らはニアサ湖に通じている沿岸の道を切り開いていった。
意外なことが起こった。
1863年7月、イギリス本国から帰還命令が出たのである。
探検の資金は政府から出ている。命令には従わねばならない。
1864年、ロンドンに戻った。
だが事情が変わり、彼はもはや英雄扱いをされなかった。
今回の探検は失敗だったと評価されていたのだ。
このロンドンの滞在中、
長男のロバートがアメリカの南北戦争で戦死したうえに、母親も病死している。
またリヴィングストンが尊敬していた、黒人の解放者である
アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンも非業の死をとげてしまった。
彼にとっては暗く辛い時期となった。
リヴィングストンはロンドンで、奴隷売買の撲滅を懸命に訴えた。
この時期の奴隷売買はポルトガル人やアラブ人などが中心で、皮肉なことに彼らは
リヴィングストンが開拓したルートをたどって奴隷を集めていたのである。
リヴィングストン自身、奴隷商人に連行されようとしている原住民たちを救ったこともあり
商人たちには怒りをおぼえていた。
だが、ポルトガルと紛争を起こしたくないイギリス政府は、彼の訴えを黙殺する。
失意のリヴィングストンは、早々とアフリカに戻ることを決心した。
続く)
[平成24年の記録]
http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230
[平成23年の記録]
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[平成22年の記録]
http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230
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