*ミントの人物伝その60−1[第429歩]

これは日本と中国の架け橋になろうと満州に渡り
数奇な運命をたどった女性の話です。


ミントの人物伝(その60−1)


愛新覚羅浩(あいしんかくらひろ、1914−1987)
愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)の妻。流転の王妃


1914年(大正3年)、侯爵である嵯峨実勝(さねとう)と
尚子(ひさこ)夫人の長女として東京で生まれる。
浩は華族の子弟として何不自由なく育っていった。


1932年(昭和7年中国東北部満州国が建国された。
2年後には清朝ラストエンペラー愛新覚羅溥儀(ふぎ)が皇帝に即位する。
これは関東軍の意図が強く働いていた。


1936年(昭和11年)のこと。
浩は女子学習院を卒業し、油絵に夢中になっていた。
そして将来は画家になりたい、という夢を持っていた。


その頃、溥儀の弟・溥傑が日本の陸軍士官学校を卒業して千葉に住んでいたが
彼と日本人女性との縁談が、関東軍の主導で進められていた。
関東軍はこの結婚を日満一体のシンボルにしようとしたのである。


じつは溥儀は、弟の溥傑を日本の皇族女子と結婚させたかった。
だが日本の皇室典範では、たとえ満州国皇弟といえども、日本皇族との婚姻は制度上認められない。
そこで昭和天皇と親戚、かつ侯爵家の長女であり
しかも年齢的にも溥傑と釣り合う浩に、白羽の矢が立つことになったのである。


ある日、元関東軍司令官の本庄大将が嵯峨家に来てこう言った。


「浩さんを満州国皇弟の妃とすることに内定しました」


ーわたしが満州国皇弟の妃に?ー


浩や家族にとっては晴天の霹靂(へきれき)だった。
断れるものなら断りたい。
しかし縁談の背後には、絶大な権力を持つ関東軍の意向がある。
簡単に断れるものではなかった。


浩は写真を見た。
聡明なまなざしが印象的で、軍人というより学者のような風貌だった。
聞けば溥傑は聡明で、溥儀もこの弟を非常に頼りにしているという。
浩は次第に結婚に心が傾いていった。
ついに決心する。


ーわたしは努力して日本と満州、いや日本と中国との架け橋になろうー


翌1937年(昭和12年)2月6日、
二人の婚約内定が満州国大使館から発表され、
同年4月3日には東京で結婚式が挙げられた。


同年10月、二人は神戸から満州国の首都新京(長春)へ渡った。
しかしここは、新京の旧城外の荒野を切り開いて区画した土地。
新居も急造で思ったより狭く、家の周りにはまだ雑草が生い茂っていた。
浩は生まれ育った家を思い起こし、これからの生活に不安を感じるのだった。


新居に移ると、すぐに宮廷に挨拶に出かけた。
中国服に着替えて、宮廷での礼儀作法を習う。


宮廷の礼儀作法に『三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼』がある。
男女で作法が違うらしいが、女性の場合
1.一度左足を折る
2.右膝の上に両手を置いて挨拶する
3.ひざまずいて三度、頭を地につけて挨拶する
これを三回繰り返すので三跪九叩頭となる。


三跪九叩頭の礼を行って皇帝溥儀に挨拶をする。
彼は満州国皇帝ではあったが、実態は関東軍の意のままに従う傀儡皇帝だった。
長身で夫に似た風貌の溥儀は、このとき優しく言葉をかけてくれたので
浩は緊張感がほぐれたという。


婉容皇后にも挨拶をした。
気品のある美しい女性だったが、病気がちで、じつは阿片中毒者だった。
溥儀には婉容皇后のほかに側室もいたが、まだ世継ぎが生まれていなかった。


10月21日、改めて新京の軍人会館で披露宴が行われた。



初めての満州での厳しい冬を経験し、日本と異なる習慣にとまどいながらも
浩は宮廷生活に慣れるように懸命に努力をした。


なお浩が結婚したこの年に、日中戦争が始まっている


結婚生活は幸せだった。
溥傑はやさしく物静かで、普段はよく読書をしていたという。


1938年(昭和13年)には長女・慧生(えいせい、ホエション)が誕生する。
各方面から祝電が殺到し、皇帝からもお祝いを贈られた。
が、関東軍首脳にとっては面白くなかったらしい。
軍は将来の皇帝候補として男子の誕生を望んでいたのだ。


1939年(昭和14年)春、溥傑が東京の駐日大使館勤務となったため、二人は東京に戻った。


翌1940年(昭和15年)には東京で次女・嫮生(こせい、ユイション)が誕生。
溥傑は前年の10月、奉天の軍官学校勤務となり、すでに転勤していたので
浩たちは次女誕生後すぐに奉天へと渡った。


この奉天での生活は、家族四人にとって平穏な日々だった。
しかし戦争の拡大は、四人の生活にも次第に暗い影を落としてゆく。


1941年(昭和16年)、日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まる。


1943年(昭和18年)秋、溥傑が陸軍大学校に配属されたため、家族全員で東京に戻る。


1944年(昭和19年)になると、戦局はますます悪化し、物資も乏しくなった。
12月には東京はB29による大規模な空襲を受ける。
焼夷弾による無差別爆撃だったが、浩はあやういところで死を免れたという。


溥傑の勤める陸軍大学校も閉鎖状態である。
これ以上東京にとどまる理由もない。


学習院初等科に在学していた長女の慧生を日本の実家に残して
1945年(昭和20年)2月
溥傑、浩、嫮生の3人は軍用機で新京に戻ることにした。


羽田空港で慧生はしきりに手を振った。
思えばこの時が「溥傑と慧生にとっての永遠の別れ」になってしまったのだが
その時は知るよしもなかった。


続く)



***最近読んだ本***


真田昌幸」(竜崎攻、りゅうざきおさむ)
真田昌幸は、徳川家康・秀忠を二度にわたって苦しめた武将である。
真田信幸(信之)、信繁(幸村)の父親としても有名だ。
昌幸の前半生が中心だが、上田城の決戦をもっと描いてほしかった。



「猛女とよばれた淑女(祖母・斎藤輝子の生き方」(斎藤由香
斎藤輝子というのは歌人斎藤茂吉の妻だった女性だ。
64歳から87歳までに108か国を旅行したという非常に活動的な女性で
一流を好みながら贅沢を嫌い、明治女の気骨を持ち、権威をものともしない。
性格はかなり変わっていたようだが、著者の由香はこの祖母が大好きだったらしい。
この本ではその夫・茂吉のこともふれているがこれまた変わった人間。
二人の間に生まれた長男が精神科医の茂太、次男が作家の北杜夫(宗吉)。
そして由香は北杜夫の一人娘である。
サントリーKKに勤務しながらエッセイなどを書いている。
親に似てユーモアあふれる文章である。




[平成24年の記録]
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