*ミントの人物伝その60−2[第430歩]

禍福はあざなえる縄のごとし、といいますが
彼女の人生はまさしく激動でした。


ミントの人物伝(その60−2)


浩たちが新京に戻って半年が過ぎた。
1945年(昭和20年)8月頃には、
もはや日本の劣勢は誰の目にも明らかであった。


8月10日には、日ソ中立条約を破棄して対日参戦したソ連
新京に攻めてくるらしいと判明した。
宮内府(新京の宮廷)は新京を放棄することを決定する。


浩たち皇族一同は、大混乱の新京駅から汽車に乗り新京を脱出。
8月15日を、朝鮮との国境近くの大栗子(ダアリーズ、通化省臨江県)で迎えた。
ここで玉音放送を聞き、日本の敗戦を知って愕然とする。


皇帝の溥儀も茫然としていたが
事実は事実として受け止めるより仕方がない。
彼は満州国皇帝の退位式を行い、ここに満州国が消滅した。


溥儀は日本へ亡命をすることとなった。
溥傑や浩たちもやはり日本に戻ることにした。


溥儀


夫の溥傑は溥儀の乗る飛行機に同乗し
浩は陸路で朝鮮に向かい、そこから海路で日本へ帰国することになった。


「浩さん、先に日本で待っています」


8月22日、溥儀や溥傑たちを乗せた飛行機が通化(トンホウ)から飛び立った。
ところが、なんと奉天飛行場でソ連軍(赤軍)に拘束されてしまう。
平壌ピョンヤン)に向かうはずの飛行機がなぜ奉天で着陸したのか?
このいきさつは謎である。


この頃はいたる所で
日本人と見れば暴行、略奪を働く暴民が発生しており、治安が悪くなってきていた。
栗子も危険となってきたため、臨江に逃れることにした。


臨江では朝鮮人家屋に入って集団生活を始めた。
皇帝が大金を残してくれたので、食料には事欠かなかったが
一緒の嫮生はまだ5歳である。
今後のことを考えると不安はつのる一方だった。


ーこれからどうなるのだろう。
わたしは日本人とはいえ中国人に嫁いだ身だ。日本に帰れるのだろうかー


秋になり中国共産党八路軍が臨江に進駐してきた。
浩たちは宮内府の人間であるとわかってしまい、所持していた宝石などを
取り上げられてしまった。
今後もどのような危険があるか分からない。


1946年(昭和21年)1月
通化に行くトラックがあったので、婉容皇后たちと乗って移動することにした。
トラックは冬の長白山中を3日間走った。
浩たちは荷台で凍えながらも必死で耐えるしかなかった。


ところがトラックが着いたのは通化八路軍公安局だった。
中国共産党八路軍にはかられて連行、勾留されたのだった。
皇族はそれほどひどい扱いは受けなかったが、やがて通化事件に巻き込まれ
一同は九死に一生を得ている。


通化事件というのは
1946年2月3日に中国共産党に占領されたかつての満州国通化通化市で
中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起と
その鎮圧後に行われた中国共産党軍・朝鮮人義勇軍による
日本人及び中国人に対する虐殺事件。
日本人3000人が虐殺されたとされている。ーWikipediaよりー


婉容皇后


同年4月、一同は長春満州国時代の新京)に移送される。
移動は牛や豚を積み込む有蓋貨車だった。


長春では厳しい取り調べを受けるが、なんとか浩は釈放の身となる。
しかし皇后たちはそうはいかなかった。引き続き吉林へ身柄を移されるという。
浩は皇后を放っておくことはできないと考え、一同に同行することにした。


吉林で一同は留置場に入れられてしまう。
阿片の手に入らない皇后は禁断症状が出て狂乱状態だった。
浩も栄養失調で体が動かなかったが、必死で彼女の世話をしたという。


やがて国民党軍の攻撃が迫ってきたため、
八路軍は延吉まで急きょ移動することになった。


延吉や佳木斯(チャムス)でも刑務所に収監される。
浩は姿の見えない皇后のことが気になっていたが
じつはその頃、皇后は鮮満国境の図們(ともん)に移送されていた。
そしてここで死亡していたのである。


ーかわいそうな皇后様。一年前までは何不自由のない生活を送っておいででしたのにー


浩はのちにこのことを噂で耳にして、涙が止まらなかった。


佳木斯で7月を迎え、やっと浩は釈放された。
刑務所長に頼み、浩と嫮生はハルビンまで送ってもらった。


そこから大勢の引揚者とともに、長春瀋陽を経て錦州まで鉄道で移動する。
だがその途中でも、国民党軍に襲われそうになったり苦難の連続だった。


9月に錦州の葫芦島(ころとう)に至り、そこで日本への引揚船を待った。


ところが何ということだろうか。
ここで浩と嫮生は、今度は国民党軍に身柄を拘束されてしまう。
そして北京を経由して、同年12月に上海へと移されるのである。


二人は上海の旧松井公館の2階に拘束される。
浩は川島芳子のように、国民党から戦犯にされる可能性もあった。


川島芳子


ある日、田中徹雄と名乗る元大尉が自動車でやってきて浩に言った。


「明日中に戦犯を残して我々は全員引き揚げます。あなたたちもおいで下さい」


彼の指示に従い、浩は自動車に荷物を積むと、嫮生を抱えて乗り込んだ。
とたんに自動車は猛烈なスピードで走りだす。


「止まれ!止まれ!」


衛兵たちの制止を振り切って、なんとか脱出に成功する。
こうして浩たちは、上海発の最後の引揚船に乗船できたのだった。


ー私と嫮生は無事に日本に帰れそうだ。でも夫はどうしているだろうかー


翌1947年(昭和22年)1月、ついに二人は日本の土を踏む。
終戦から1年4か月、中国大陸をあちこち流転したあとに
浩はようやく訪れた平和の味をかみしめることができたのだった。


続く)



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