*ミントの人物伝その60−3[第431歩]

嵐のような苦しい時期に浩を支えたのは
家族の絆だったのかもしれません。


ミントの人物伝(その60−3)


日本に引揚げた慧生との再会を喜んだあと
父・実勝が経営する町田学園の書道教師として生計を立てながら、
横浜市日吉に移転した嵯峨家の実家で、二人の娘たちと生活をはじめた。


一方、溥傑はどうしていたか。
彼は兄の溥儀とともに、ソ連軍によりチタ、ハバロフスクと移送されたあと
中国の撫順の労働改造所に収容されていた。
家族と連絡をとれる状態ではなかったのである。


1954年(昭和29年)
中学3年の慧生が、中華人民共和国国務院総理の周恩来に宛てて、
「父に会いたい」と中国語で書いた手紙を出した。
慧生は文学好きで中国語を熱心に勉強していたのだ。


手紙を読んで感動した周恩来は、浩・慧生・嫮生と、溥傑との文通を認める。
そして夫からの嬉しい返事が届いた。


ーわたしは今、撫順にいる。元気でいるから心配はいらないー


浩は大いに喜ぶと同時に
立派な中国語を書けるまで成長した慧生のことを嬉しく思った。


文通が許されたとはいえ、溥傑はまだ拘束されたままだ。
会うことはできない。
だが浩は希望が湧いてくるのを感じた。


ところが運命というものは残酷で、悲劇がおこった。
1957年(昭和32年)12月10日、慧生は学習院大学在学中だったが
交際していた同級生大久保武道天城山でピストル自殺をしてしまったのだ。
浩たち家族にとって非常な衝撃だった。


当時の新聞


マスコミは『天国で結ぶ恋』などと報じたが、真相は不明である。
これは大久保に無理心中をはかられたものだ、と浩は自伝に記述している。


1960年(昭和35年)ついに溥傑が釈放される。


1961年(昭和36年
浩と嫮生は、中国に渡り溥傑と16年ぶりに再会した。
溥傑は浩から差し出された慧生の遺骨をしっかりと抱きしめた。
溥傑53歳、浩47歳、嫮生は21歳になっていた。


この後、浩は溥傑とともに、北京に居住した。
やっと夫婦二人の静かな生活が戻ってきたのである。


北京に移住後、文化大革命が始まる。
1966年(昭和41年)には二人の自宅が紅衛兵に襲われたりもしたが
文革が下火になって以降、浩は計5回、日本に里帰りしている。


1987年(昭和62年)6月20日、浩は北京で死去した。享年73歳。


1988年(昭和63年)
浩の遺骨は下関市中山神社の境内に建立された摂社愛新覚羅社に
慧生の遺骨とともに納骨された。


溥傑は浩に語りかけた。


−浩さん、ありがとう。
私と結婚したため、あなたは辛い目にあったが
あなたのおかげで楽しい晩年をおくることができた−


さらに7年後の1994年(平成6年)、溥傑が死去する。
浩と慧生の遺骨は半分に分けられ、
溥傑の遺骨の半分とともに愛新覚羅社に納骨された。
また浩と慧生の残る半分の遺骨は、溥傑の遺骨の半分とともに、
中国妙峰山上空より散骨された。


次女の嫮生は日本に留まって日本人と結婚、5人の子をもうけ、
現在も兵庫県西宮市に在住しているという。


了)


(参考文献)
流転の王妃の昭和史」(愛信覚羅浩)
  Wikipedia 、他
  写真は Wikipedia、Web から借用しました。



***最近読んだ本***


流転の王妃の昭和史」(愛信覚羅浩)
今回の人物伝はこの自伝に拠りました。
かつて京マチ子主演で映画化されたことも書かれています。
まだでしたらぜひ一読をお勧めします。




[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230



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