*ミントの人物伝その62−2[第446歩]

国と国とが対等に交渉できるのは
互いに相手の実力を認めているからで、これは個人間にも通じそうです。


ミントの人物伝(その62−2)


1886年明治19年)2月に陸奥は帰国する。
海外での体験と勉学は、陸奥を変えていた。
彼はすでに衰退してゆく自由民権運動には関心を失っていた。
これは留学を勧めた伊藤博文の期待したことでもあった。


伊藤博文


この頃の国民の関心は、強力な海軍力を持つ清国の脅威、そして
『欧米諸国と締結された不平等条約の改正』だった。


明治政府は江戸幕府が欧米諸国と締結した安政年間の通商条約を継承していた。
ところがこの条約は日本にとって非常に不利なものだった。
1.外国に領事裁判権治外法権)を認めている。
  (外国人が日本で犯罪を犯しても日本の裁判所で裁くことが出来ない)
2.日本に関税自主権がない。
  (日本が関税率を自由に定められない)
3.片務的最恵国待遇を認めている。
  (日本がA国に有利に認めた条件はその他のB・C国にも適用される。
   逆に日本には恩恵なし) 
4.条約の有効期限および廃棄条項が欠如している。


この不平等性は、欧米諸国が日本を対等な国家として認めていないことなので
その改正は明治政府発足以降の悲願だった。
そもそも、1871年明治4年)の岩倉使節団派遣からし
本来の目的は条約改正だったのである。


岩倉使節団


政府は近代国家として欧米諸国に認められるために、
欧化政策を推進し鹿鳴館で舞踏会を盛んに開催したり
大日本帝国憲法発布や帝国議会発足の準備を進めたりしたが
これは条約改正がその目的だったのだ。


しかし岩倉以降、外務大臣として寺島宗則井上馨らが
改正に向けて取り組んできたが成果は上がっていなかった。


さて陸奥であるが、10月には外務省に出仕し、外務省弁理公使に任命される。
陸奥は頭の回転が速く
話している相手の態度や表情から、その考えを読み取ることが巧みであった。
また非常に粘り強い交渉をするので、外国との折衝に適任と判断されたのだろう。


1888年明治21年)5月に、駐米公使となりアメリカに赴任する。
ときの外務大臣大隈重信である。


陸奥は、赴任してわずか半年後の11月、
メキシコとの間に日墨修好通商条約を締結することに成功する。
彼は駐メキシコ公使も兼任していたのである。
これは日本最初の完全な平等条約であった。
時期が良かったこともあったが、この条約締結は、
イギリスをはじめとした他の諸国との条約改正交渉を促進させる効果があった。


−よし、この勢いでアメリカと交渉だ−


陸奥アメリカ民主党、ついで共和党と交渉したがなかなかうまくいかない。
そうするうちに大隈が失脚してしまったので、改正交渉はふり出しに戻ってしまった。


−外国との交渉では、まず日本を理解させることが大事だ。しかしそれが難しい−
陸奥は改めて、東洋の小国である日本の外交が、いかに困難であるかを痛感するのだった。


帰国後、第1次山縣内閣の農商務大臣に就任する。
明治23年(1890年)、大臣在任中に第1回衆議院議員総選挙和歌山県第1区から出馬。
初当選を果たし1期を務める。
この期間はしばらく外交とは遠ざかる時期だ。


1892年(明治25年)8月8日、第2次伊藤博文内閣が発足する。
伊藤首相は条約改正に並々ならぬ意欲を持っていた。
彼は外務大臣に、前農商務大臣の陸奥宗光を任命する。
かつてメキシコとのあいだに対等条約を結んだ実績を買っての起用だった。


この頃伊藤は、条約改正交渉を再開するにあたってこう上奏している。
「欧米列強の仲間入りを果たすためには、治外法権条項を撤去することが前提である」


陸奥外相は、1893年明治26年)7月5日の閣議に条約改正案を提出し
明治天皇の裁可を得た。
さらに条約改正論者である星亨(ほしとおる)衆議院議長に据えられる。


このように態勢がととのえられると
陸奥はかつての外務大臣である青木周蔵駐独公使に命じて
いよいよイギリスとの交渉を開始させた。


ところが、陸奥が全面対等主義にもとづいてイギリスと交渉にあたろうとしていたとき、
世論として現行条約励行運動が湧き上がってくる。
これは簡単に言うと
外国人に内地に雑居されては困るということだ。


当時の日本には外国人居留地が定められていた。
新条約が成立するとと、外国人は内地に雑居するようになり
やがては彼らの土地所有を無制限に認めることになるのではないか。
それであれば、まだ現在の条約のほうがましである、という主張なのだ。


やがて議会内でも野党より現行条約奨励論が強まってきて
ついにその建議案が議会に提出されるに至った。


議会はこのため混乱する。
同年12月29日、停会あけの衆議院において陸奥は、歴史的な大演説をおこなった。
彼は、日本が明治維新以来開国主義を国是としてきたあゆみを振り返り、
帝国議会が現行条約励行論のごとき鎖国攘夷の建議案を持ち出して
条約改正に支障をあたえることは許されないことである」
と強く非難して議会に反省を求めた。


しかし、議会は上程案撤回の意志を示さなかったので、
ついに政府は翌30日衆議院を解散するという強硬手段に出た。


(続く)



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