ミントの人物伝その64〔第510歩〕

久しぶりに書いてみました。
大河ドラマでは触れていないエピソードです。
官兵衛の性格がしのばれます。


ミントの人物伝(その64)


黒田一成(くろだかずしげ、1571〜1656)。
黒田家の家臣。武将。


伊丹村(兵庫県)に加藤重徳の次男として生まれる。
幼名は玉松。


このころ織田信長は「天下布武」を旗頭に、天下統一を目指していた。
1578年(天正6年)、家臣である荒木村重が信長に反旗を翻した。
村重に翻意を促すため摂津有岡城へ向かった黒田孝高(官兵衛)
捕えられ、城の土牢に幽閉されてしまう。

このとき加藤重徳は村重の家臣だった。
彼は孝高の牢番を命じられたが、孝高に接するにつれ
次第に孝高の才知に感服するようになる。

重徳は孝高に対し、外部との連絡など色々と便宜を図るようになった。
孝高は深く感謝して、こう言った。

「そなたは私の恩人だ。もし私がこの城から脱出するときがきたら
そなたの一子をもらい受け立派に育てたい」


1年後、有岡城が落城し、孝高は救出される。
この当時、約束の反古や裏切りは日常茶飯事だったが、孝高は約束を守り、
重徳の次男である玉松を養子に迎えた。

孝高の養子となった玉松は、名も黒田一成となる。
三奈木・黒田氏の祖である。


1584年(天正12年)、一成は長政に従い、泉州岸和田で根来雑賀の僧勢と戦う。
14歳、一成の初陣であった。
彼は勇敢で力も強かったが、やがては身長6尺(1.8メートル)の巨漢となってゆく。

その後も黒田家の戦いに幾度となく出陣する。


1587年(天正15年)、秀吉の九州征伐のときには
島津軍と耳川の戦いで先陣をなし、高名をあげる。

文禄・慶長の二度の朝鮮出兵のときも、後藤又兵衛とともに勇敢に戦った。

関ヶ原の戦いでは、長政は徳川家康方の東軍に属していた。
一成は、石田三成らと死闘を繰り広げたが、これが徳川方の勝利の一因となった。

戦後の論功行賞で、長政は家康より筑前52万石の大領を与えられた。
長政は一成の軍功に対し、三奈木(福岡県朝倉市)を中心とした下座郡1万5000石
(のちに1万6000石)を与えることとした。
大名格の領地である。

その後も一成は、大阪冬の陣・夏の陣に出陣し奮戦。
彼は最も若くして黒田二十四騎の一人に加えられた。


1637年(寛永14年)、島原の乱が起こったとき
幕府は、板倉重昌を大将にして攻撃を行ったが
失敗して重昌は戦死。
ことの重大さに驚いた幕府は、松平信綱を急いで派遣したが
領民たちの抵抗は激しくなかなか鎮圧できない。

信綱は軍議の席で各大名の意見を聞いた。
そのとき、大名格で軍議に加わっていた一成が言った。

兵糧攻めがよろしいと存じます」

「黒田一成殿は敵に臆されたか」ほかの大名たちは嘲笑した。

「かねてより敵に対して臆したことはございません。
ただ敵は弾薬を十分に持っております。
まともに戦えば味方の損害が大きいと感じましたので」

信綱はなるほどと思い兵糧攻めを採用した。
また一方で地下道を掘るとともに、海上から軍船の砲撃などを行った。

領民たちは原城にこもって戦ったが
ついに88日後、天草四郎時貞をはじめ約3万7000人の領民が戦死し、
草の乱終結したのだった。
一成の進言がなければ犠牲が増えていたことだろう。


一成は地元では領民の撫育に努めるとともに、神社仏閣の建立に力を注いだ。
三奈木の茶臼山(元山城跡)に、清岩禅寺を建て禅宗の教えを広めたほか
春日神社や美奈宜神社を再建している。

一成は歴戦の勇士だったが、性格自体は温厚であり
要職にあっても、おごり高ぶることはなかったという。

1656年(明暦2年)11月、死去。
当時としては長命の86歳の生涯だった。


三奈木黒田家は、初代黒田一成から福岡藩筆頭家老の家として、
幕末まで約260余年間続くことになるのである。


(参考文献)
Wikipedia
朝倉市ふるさと人物誌28 他
画像はWikipediaから借用いたしました。



[平成25年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20131231


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[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230



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