ミントの人物伝その65〔第542歩〕


大河ドラマも終盤になり、官兵衛の性格が急に変わりましたね。

ところでこの人は、悪人か善人か評価が分かれる人物です。


ミントの人物伝(その65)


ロナルド・ビッグス(1929〜2013)。
英国の大工、列車強盗。


ロナルドはイギリスのロンドン郊外ランベス出身。
1947年にイギリス空軍に入隊したが、1949年には脱走兵として除隊された。
そののちは大工となって働く。酒と女が好きな陽気な男だった。
1960年に結婚して息子が3人生まれた(うち一人はのちに死亡)。

あるとき、友人のブルース・レイノルズから
列車強盗に参加しないか、との誘いを受ける。
普段から政府のやり方に不満を感じていたロナルドは参加することにした。

1963年8月8日、ロナルドと14人の仲間は、
グラスゴーからロンドンに向かう郵便列車を襲った。

深夜午前三時、ロンドン郊外を走る列車が赤信号で停止する。
これは仕組まれたものだった。
不審を感じて信号に近づいた列車運転士は殴られて気絶する。

「おい、現金が120袋もあるぞ!」

「列車強盗が割に合わない、なんて言った奴は誰だ?」

ロナルドたちは列車に積まれていた現金を車で運び去った。
その額はなんと260万英ポンド。
これは現在の価値でいうと4000万英ポンドに相当する。
史上最大の大列車強盗事件だった。

強奪金は全員で均等に分けられた。
ロナルドも現在の日本円で、およそ6億円近い大金を手にしたのである。

なお運転手はこのときの傷が元でのちに死亡している。
だが、当時のイギリス刑法に「傷害事件の被害者が1年と1日以内に死亡しない場合は
殺人事件として立件しない」という規定があったため
結局、死刑適用の殺人罪での立件はされなかった。

しかしながら、翌1964年にはロナルドを含め全員が逮捕される。
これだけ派手な犯行なのだからアシがつかないはずはないのだ。


ロナウドは懲役30年の刑を宣告され、ロンドンのワンズワース刑務所に収監された。
殺人罪でも懲役15年ほどが最高刑だった時代だ。
いかに重い判決であるかが分かる。

ロナルドは自由を求めた。
収監されていた犯罪者たちも脱走の手伝いをしてくれるという。
彼は脱走を決意する。

暇があれば熱心に腕立て伏せを始めた。
それを見た看守がニヤニヤ笑いながら言う。

「おい、ロナルド。脱走のための体力づくりかい?」

「ああ、その通りだよ」

収監されて15か月目。
1965年7月8日に同刑務所を脱走する。
刑務所の塀の外で、仲間たちのクレーン車が待機するという大胆な手口だった。


脱走に成功したロナルドはパリで整形する。
その後も彼は整形をしているが、容貌の変化は以下の通り。

同年、英国海外航空の飛行機で
オーストラリアのシドニーに逃れて数ヶ月暮らした後
1966年にはアデレードに逃れ、そこで妻と2人の子供に再会した。

1967年、インターポールの探偵が彼を探し回っていることを知ると
メルボルンに逃れ、郊外のブラックバーンノースに家を借りた。

1969年にロイター通信の報道で、メルボルンにいることを突き止められたロナルドは
家族と別れ、オーストラリアから出国することを決意する。

メルボルン港からパナマを経由して

1970年、ブラジルのリオデジャネイロに逃れた。
リオでは大工仕事などで生計をたてながら暮らす。


1974年、
デイリー・エクスプレスのコリン・マッケンジー記者が
ロナルドがリオに潜伏しているとの情報を得る。

このことを聞きつけたスコットランドヤード
刑事、ジャック・マクファーレンらをリオに派遣した。

「ロナルド、お前を逮捕する!」

ロナルドは一旦は観念する。
だが、運命は彼に微笑み、逮捕・送還されることはなかった。
ブラジル政府から待った、が入ったのである。

なぜかというと
ロナルドは当時、ナイトクラブのダンサーだったライムンダと暮らしていたが
彼女はこの時、彼の子を妊娠していたのだ。
ブラジルには
ーブラジル人の子供の父親が外国人である場合は、本人の希望に反して国外追放されることはないー
という法律があった。
また、イギリスの法律でも、同国の逃亡犯が逃亡先の国で逃亡犯として扱われていない場合は
送還司令を出せないことになっていた。

つまり「ロナルドがブラジル国内にとどまる限り、イギリス警察は手が出せない」のであった。

ロナルドの強運としか言いようがない。
彼自身そんなことは意識していなかっただろうから。


なお、のちの話であるが
1997年8月、イギリスはロナルドの送還を求め、ブラジルの最高裁で裁判を行なったが
同年11月に下った判決で、やはりイギリス側の要求は却下されている。


ライムンダとはのちに別れたが
彼女との間に生まれた長男のマイケルは、TVの子供番組でアイドル歌手となる。
そのためもあって、ロナルドはブラジルで有名人になる。

彼は仕事をすることもなく、毎日バーに現れては午後10時に帰宅。
家ではバーベキューを開いて観光客相手に列車強盗の話をしたり
自分のロゴの入ったTシャツや人形を売ったりしていた。


1978年にはイギリスのロック・バンド『セックス・ピストルズ』がブラジルへ赴き、
ロナルドのヴォーカルで2曲を録音したことでも話題となった。


1981年、ロナルドはジャーナリストを装った男2名に誘拐され
飛行機でカリブ海の島国、バルバドスに連れて行かれてしまう。
誘拐犯は彼をイギリスに引き渡そうとした。
だがバルバドス政府の反対で、結局イギリスに引き渡されることなく
無事にブラジルに帰国したのだった。

ロナルドの第二の強運である。

このまま余生を過ごすこともできたのだが
ロナルドも歳を重ね、望郷の念がしだいに強くなってゆく。
しかし帰国すれば逮捕される。
彼は悩んだ。

「わしは幸運に恵まれてこれまで自由でいられた。
しかし最後にもう一度、イギリスの土を踏みたい」


ある日、ロナルドの前に再びジャック・マクファーレンが現れた。
身構えるロナルドにジャックは言った。

「心配しなくていい。私はスコットランドヤードを定年退職したんだ。
君を逮捕しに来たのではない」

二人はかつてのことを懐かしく語り合った。


2001年5月
ロナルドはついにイギリスのメディア紙「ザ・サン」で、イギリスに帰国したいと告白した。

5月7日にイギリスに帰国した彼はただちに逮捕、収監された。
ロナルドはこのとき心臓の病を患っていた。

彼は逮捕されてから6ヶ月の内に4回も病院で治療を受ける。
そして死の直前には息子の世話になりたいと
早期の釈放の嘆願を出し続けた。

2009年8月6日、80歳の誕生日を前にしてようやく彼は釈放される。
じつに8年ぶりのことだった。


2013年12月18日
ロナルド・ビッグスは、ロンドンの介護施設で死去する。
84歳の波乱万丈の生涯だった。



(参考文献)
Wikipedia、Web ほか
画像はWebから借用いたしました。



[平成25年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20131231


[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230


[人物伝]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20140930


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