ミントの人物伝その66−1〔第553歩〕


三国志時代の知勇兼備の名将です。


ミントの人物伝(その65−1)


周瑜(しゅうゆ、175〜210)。
呉の軍師、大都督。
廬江郡舒県(安徽省廬江県)出身。字は公瑾(こうきん)。


ときは後漢末期の中国。帝は霊帝
184年(中平元年)、黄巾の乱が起こる。
世は乱れ始めた。

孫策(そんさく)という少年がいた。
呉の豪族、孫堅(そんけん)の息子である。
孫堅黄巾の乱を鎮圧するために汝南に向かっていたが
妻や子供の安全を考え、長江の北岸である舒県に移り住まわせた。
ここで孫策周瑜少年と出会う。

この出会いがなければ
のちの赤壁の戦いにおける呉の勝利はなかったかもしれない。

同年齢の二人は、共に同じ師に学び、武術の稽古に励んだ。
最初こそ対立もしたが
すぐに「周郎」、「孫郎」と呼び合うようになり
やがては「断金の交わり」と評される篤い親交を結ぶことになった。
勇猛だがやや短慮な孫策と、慎重で思慮深い周瑜
互いに自分にないものを認め合っていたのだろう。

「周郎、君は将来何になるつもりだ」
「孫郎は父上の後を継いで軍人になるんだろう、俺も一緒に戦うつもりだ」
「有難い、その時はよろしく頼むぞ」

189年(中平6年)、霊帝の死のあと、宮中で政変が起こる。
董卓(とうたく)がこの政変の混乱のなかで献帝を擁立し
相国となって暴政を行った。

有力豪族たちは反発し反董卓同盟を結成した。
袁紹袁術曹操(そうそう)らである。
そして孫策の父である孫堅も、袁術の部下として働くことになった。

192年(初平3年)、袁術孫堅荊州劉表征伐を命じた。
孫堅は息子の孫策を呼び寄せ共に戦った。
だが孫堅は、劉表の部下である黄祖の部下の待ち伏せに遭い
戦死してしまう。
17歳の孫策は父親の後を継いで戦うこととなった。

董卓呂布(りょふ)に暗殺されるのはそれから間もなくのことである。

194年(興平元年)、孫策袁術の命により、江東(長江下流域)に向かい兵を挙げた。
このとき孫策は、今こそ周瑜を呼び寄せようと考えた。

誘いの手紙を読み、周瑜は兵を連れて歴陽に向かった。
周瑜はすでに立派な風采を備え、「美周郎」と評される青年になっていた。

「おお周郎、よく来てくれた」

「周郎」と呼んでくれる友の変わらぬ態度を周瑜は嬉しく思った。
そしてこれからは部下として、
孫策のために全力を尽くすことを心に誓うのだった。

周瑜孫策に従って江東を攻略する。
軍勢は投降者などを飲み込み数万に膨れ上がった。
孫策は独力で会稽を攻略できると判断し、周瑜には丹陽の守備を任せることとした。

孫策はこの気候温暖で豊かな土地を、ぜひとも自分の勢力下に置きたいと考えたのである。
そうすればやがて袁術から独立することもできるだろう、と。

だが袁術は、丹陽太守に一門の袁胤を送り、周瑜寿春に召喚した。
袁術は有能な周瑜を配下に迎えようとしたのである。
あるいは孫策を警戒して、その勢力を削ぎたいと考えたのかもしれない。

ところが周瑜は、孫策から離れ人望のない袁術に仕えるつもりはなかった。
しかし真向から拒否したら角が立ってしまう。
あえて淮南郡居巣県の長になることを袁術に願い許可される。

皇帝を称するようになった袁術に完全に見切りをつけて
居巣県に移った周瑜はここである人物と知り合う。
名を魯粛(ろしゅく)という。

話をしてみると非常に面白い。
魯粛孫策が江南・江東の地で独立すべきだ、という。
周瑜は彼が必ず孫策のために役立つ人物だ、と考え
198年(建安3年)、魯粛を呉(蘇州)に連れて行った。

孫策はこのとき江東部を完全に支配下に置いており、会稽太守となっていた。
孫策周瑜を大いに歓迎した。
建威中郎将に任命し、兵士二千人・騎馬五十頭・軍楽隊や住居を与えるなどその待遇は並外れていた。
あまりの厚遇だと、先代からの重臣程普(ていふ)らに反感を持たれるほどだった。

その後、孫策は西方の荊州攻略を考えるようになり
周瑜を江夏太守にして攻略に当たらせた。

揚州北部の皖城を攻め落とした時、喬公の2人の娘を捕虜にした。
2人は絶世の美人だった。
孫策は姉の大喬周瑜は妹の小喬を妻に迎えた。
二人は本当に義兄弟になったのである。

さらに尋陽まで軍を進めて劉勲を破り、江夏を討伐、さらに豫章と廬陵も平定した。
これで孫策の勢力範囲は長江の下流だけでなく・中流域と江南部の一部にまで広がった。
周瑜は巴丘に駐屯する。

ところがこの頃になると、あれほど緊密だった孫策周瑜との関係に
すきま風が入ってきていた。
孫策はかつてはよく人の意見も聞いたのだが、次第に自分勝手になり
歯に衣着せず意見を述べる周瑜のことがうっとうしくなってきていたのである。
周瑜を巴丘に遠ざけたのもそのためであった。


200年(建安5年)に孫策が急死した。
孫策に反感を持つ刺客の手にかかってしまったのだ。

「孫郎よ、なぜ死んだ。これからというときに・・」

孫策の弟、孫権(そんけん)が後継者となった。
のちの呉の太祖である。
孫策周瑜より7歳年下であるが、よく部下の意見を聞いて物事を判断したという。

孫権

周瑜は巴丘から軍勢を引き連れて葬儀に参加すると、
孫権に命じられてそのまま呉に留まり、諸務を取り仕切ることとなった。

諸将や食客の中には後を継いだばかりの孫権を軽んずる者もあった。
ところが、孫策が友のように接していた周瑜が、孫権に率先して臣下の礼を取り
規範を示したため、周囲もそれに従うようになった。


だがこの頃から、北方からは新たな脅威が押し寄せてきていた。
曹操である。

曹操はかつて黄巾軍討伐に功を挙げ、敵兵30万人を降伏させたが
その中から精鋭を選んで、「青州兵」と名付け自軍に編入したため
これ以降、曹操の実力は大きく上昇した。
198年(建安3年)、呂布を攻め滅ぼし
202年(建安7年)、官渡の戦いで最大の敵、袁紹を破っている。
勢いにのる曹操孫権の元に使者を差し向け、自分のもとへ人質を送るよう命令した。

拒否すればやがて戦争になるだろう。
孫権重臣達に議論をさせたが、彼らもはっきりとした意見を出せなかった。
周瑜も沈黙している。

孫権自身は心の中では人質を送りたくないと考えていたことから、
周瑜の意見を聞きたいと考え
母親の呉氏のもとに周瑜一人を連れて行き、その席で話をした。

周瑜はどう思うのだ?」

「人質などは送らず、このまま力を蓄えて天下の情勢を見極めるべきです」
病床で伏せていた呉氏もうなずいていった。

「権殿、わたしはかねてより周瑜を自分の子供のように思っています。
あなたは彼を兄と思い、頼りにするのです」

孫権は承知した。
以後も孫権周瑜を高く評価し、生涯その意見を尊重することとなる。


やがて来る曹操との闘いのために孫権の支配地を広げておかねばならぬ。
そう考え周瑜は戦闘に明け暮れることになる。

周瑜は知略・武略に優れていたが、武功を誇らず謙譲さも持ち合わせていたため
この頃になると、かねて周瑜に反感を持っていた程普もついに感服し
彼を尊重するようになっていた。


206年(建安11年)
周瑜は軍目付けとして山越討伐を行い、麻屯・保屯を攻略して一万人余りの捕虜を得る。

やがて黄祖陣営から甘寧が投降し、孫権に対し黄祖征伐を提案してきた。
黄祖孫権にとってみれば父親の仇である。
周瑜呂蒙(りょもう)とともにこれに賛同し、熾烈な戦いののち
ついに黄祖を滅ぼした。
208年(建安13年)春のことである。

周瑜は大都督(前線総司令)に任命された。


その頃、荊州では劉表が病死したため
子の劉�懿(りゅうそう)が跡を継いでいたが
彼は曹操を恐れるあまり、なんと戦いもせずに降伏してしまった。
これで荊州曹操の勢力下になってしまった。
曹操にとってみれば、残る敵は江東の孫権益州劉璋、関中の群小豪族
だけとなったのである。

曹操は大軍を率いて南下している。
江南の地は風雲急を告げようとしていた。


(続く)



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