ミントの人物伝その66−2〔第554歩〕


周瑜は音楽にも造詣が深かったといいます。マルチ人間ですね。


ミントの人物伝(その66−2)


「今度は八十万の軍勢を整えて将軍とお会いし
呉の地で狩猟をしたい思う」

孫権陣営では、曹操孫権にあてたこの手紙の内容を聞かされて
顔色を変えぬ群臣はいなかった。
ふたたび、曹操に降伏するか抵抗するかで論争が起きた。

曹操

曹操であるが、この前年
白狼山の戦いで袁氏を滅ぼし、ついに河北を統一している。
曹操軍は今や兵士20数万人を有しているうえに
劉表の整備した荊州水軍までも手中に治めてしまっているのだ。
対する孫権軍は、頼ってきた劉備軍を合わせても3万人強である。
彼我の戦力差は歴然としていた。

当初、孫権陣営では降伏論者が多数を占めた。
周瑜はその時、呉を留守にしていたが、主戦論者の魯粛に呼ばれ急いで帰還した。

周瑜曹操を「漢の賊徒」と呼び、徹底抗戦を主張する。

「いかに曹操が80万人と号しても実際は20数万人でしょう。
その中には戦意のない荊州兵も多数ふくまれているはず。
そして何よりも江南の地では馬が使えない。水軍の戦力・質がものを言うのです」


「それと北部兵は江南の地に来れば、必ずや病気にかかるに違いありません。
戦意も落ちるはずです」

孫権に救援を求めるために
魯粛随行する形で劉備から派遣された諸葛亮孔明の説得もあった。

諸葛亮孔明

ついに孫権劉備と連盟して、曹操に対抗することを決意する。
孫権は刀を抜くと、前に置かれた上奏文を載せるための机に斬りつけ、

「部将たちの中に、この上も曹操に降伏すべきだと申す者がおれば
この机と同様になるのだ」

と言って決意を示したという。

孫権は3万の精兵を周瑜や程普らに与えた。
そして、曹操から逃れてきた劉備と協力して、
赤壁の地で曹操軍を迎撃させた。

周瑜の予測通り、江南の気候や地勢に不慣れな曹操軍は疫病に苦しめられていた。
そのせいで一度の交戦で曹操軍は敗退して、長江北岸に引き揚げた。
周瑜らは南岸に布陣する。
そのまま両軍の睨み合いが続いた。

「周将軍、火責めはいかがでしょうか?」
武将の黄蓋(こうがい)が進言した。

「なるほど、敵は連環の計(れんかんのけい)を用いて艦船を鎖で繋いでいる。
これは防御には有利な方法だが、火が付けばすぐに延焼してしまうだろう。
良い作戦だ。だが・・」

周瑜はすぐに大きな問題があることに気が付いた。
今は北風の時期だ。
わが軍は南方からの攻撃となるので
もしも実行すれば、逆に味方が大損害を被ってしまうだろう。

しかし地元民に聞くと、この季節でも南風が吹くことはあるという。
やはり火計しかない、周瑜は決断した。

それから数日、ついに南風が吹く。
降伏だと偽って接近に成功した黄蓋が、曹操軍の船団に火を放つ。
忽ち接続している艦船に燃え広がった。

「今だ、かかれ!」

周瑜率いる主軍は曹操軍の船に乗り込み切り結ぶ。
火災に狼狽する曹操軍は戦意を半ば消失していたこともあり
多くの兵士が討たれたり、船から川に落とされたりした。

孫権軍ががぜん優勢となった。
曹操軍の焼け残った船は引き揚げ始める。
だが火は岸辺の陣営にも延焼していた。

周瑜劉備軍と再度合流して追走する。
陸上戦でも敵を圧倒した。

ついに曹操
曹仁
徐晃を江陵の守備に、楽進を襄陽の守備に残し
自らは北方へ撤退した。

ー勝った。しかし曹操は逃してしまった。
まだまだ気を引き締めなければなるまいー

岸辺に立つ周瑜は勝利の余韻にひたりながらも
今後のことに思いを馳せるのだった。


赤壁の戦い孫権劉備連合軍の大勝利に終わった。
曹操の中国統一の野望は頓挫し、こののち中国は
魏(曹丕)、呉(孫権)、蜀(劉備)の三国鼎立時代を迎えることになるが
赤壁の戦いはその端緒になった重要な戦いだったのだ。


赤壁戦後のことである。
孫権江陵の重要性に目をつけ、周瑜に攻撃を命じた。
だが江陵を守る曹仁は手ごわかった。
周瑜は長江の北岸に陣を据え攻撃を続行したが、矢を胸に受けて重傷を負ってしまう。

「うぬっ、これしきの傷など」

周瑜は手負いのまま戦に臨み、曹仁の攻撃を退け
ついに江陵から曹仁を撤退させる。
だがそれからの周瑜は体調がすぐれなくなってしまった。

その後、益州劉璋を攻略すべく出陣したが
その途上で病気にかかり巴丘にて急逝してしまう。
36歳の若さだった。


周瑜の死は孫権を大いに嘆かせた。
孫権は戻ってた周瑜の柩を蕪湖まで出迎え、葬儀の費用の一切を負担したという。

周瑜の死により遠征計画も白紙に戻された。
彼の後は魯粛が継ぎ、
以降は荊州に構える劉備との共存方針が採られることになる。


◇ ◇ ◇ ◇


現在も長江の水面を見下ろす断崖に赤壁の文字がある。
戦勝を記念して周瑜が刻ませたものだ。

かつて勇士たちの死闘があったこの場所でも長江の流れは変わらない。
今も豊かにゆるやかに流れ続けている。


(了)


(参考文献)
周瑜」菊池道人
Wikipedia、Web ほか
画像は Wikipedia、Webから借用いたしました。



[平成26年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20141231


[平成25年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20131231


[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230


[人物伝]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20140930


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