ミントの人物伝その69〔第589歩〕


嫁ごよ、あっぱれ、と昌幸は言いました。


ミントの人物伝(その69)


小松姫(こまつひめ、1573-1620)
真田信之(信幸)の正室


戦国時代、上田合戦というものがあった。
これは、信濃国上田城(長野県上田市)と、その周辺で行われた
真田氏と徳川氏との戦いの総称である。
徳川と真田は、いわば因縁の宿敵と言ってよい。

真田氏と徳川氏の戦は二回行われた。まずは
1585年(天正13年)の戦いが第一次上田合戦である。

この合戦で徳川方は破れてしまう。
徳川家中には猛将として鳴らした、本多忠勝がいた。
真田の軍略を恐れた忠勝は、真田家を取り込むため、
家康に自らの娘、小松姫を嫁がせることを提案した。

真田家の当主は真田昌幸で、長男が信幸、次男が幸村である。
この長男の信幸に、と考えたのだ。

それに対して家康は
上田合戦後に面会した信幸の器量に感じ入っており
自陣営に取り込んでおきたいという思いがあったことから快諾。
小松姫を自らの養子として真田家へ嫁がせることとした。
時に信幸21歳、小松姫14歳。


この婚姻については面白い逸話があるが、かなり嘘っぽいので省略。
小松姫は図画で見ると色白の美人。
男まさりで気も強かったが
夫婦仲は良く、二男二女に恵まれる。


1590年(天正18年)、信幸は小田原征伐で戦功をあげ、沼田城主となる。


秀吉が死んで、家康と石田三成の対立が決定的となる。

1600年(慶長5年)7月、西軍につくことを決心した昌幸は信幸にこう言った。
「お前は忠勝殿の息子だ。徳川に味方せよ。わしと幸村のことは敵と思え」

非情なようであるが、これも戦国時代のならいだ。
真田家を存続させたいという意図もあったのだろう。
信幸はこのあと「信之」と改名する。


小松姫はどう考えていたのだろうか。
このあとの行動で判断できそうだ。


さて、徳川との戦いに備えるべく上田城に戻る昌幸・幸村父子だったが
途中、休息を取ろうと沼田城に立ち寄った。
信之は不在だが、孫の顔も見ておきたかったのだ。
7月25日のことである。

ところが小松姫、城門を閉ざしたまま開けようとしない。
使いの者にこう言ったという。
「父・弟とはいえ今は敵、城内に入れるわけにはいけませぬ」

昌幸、幸村は怒ったが、その夜小松姫から連絡があった。
近くの寺に寄ってほしいとのこと。
昌幸は孫とここで会うことが出来、休息をとることができた。

小松姫としては
夫の立場を考えると、昌幸たちを城内に迎えることは出来ないが、
肉親の情愛も大事にしたかったのだ。

昌幸は
「さすが忠勝殿の娘よ。小松がいるかぎり真田家は安泰じゃ」
こう言って喜んだという。



ちなみにこの後の第二次上田合戦では、
昌幸・幸村父子は徳川秀忠軍を上田に釘づけにしたので
結果、秀忠軍は関ヶ原決戦に間に合わなくなってしまった。
もし関ヶ原が西軍の勝利だったら、昌幸父子の軍功はきわめて高かったといえるだろう。


9月15日、関ヶ原合戦で家康は勝利し、実質上の覇者となる。
徳川時代の始まりだ。


信之は家康に気に入られていたが、その家康も大阪の役後に死去。
秀忠は真田家を嫌っていたので、真田家に対する締め付けは厳しくなった。

信之は懸命に自藩の存続に努力する。
小松は夫を助けよく家内をまとめた。


1620年、小松姫は病にかかり、江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中
武蔵鴻巣で亡くなる。


「我が家から光が消えた」

信之は大いに落胆、悲しんだという。


(参考文献)
Wikipedia
画像はWikipedia 、Webから借用いたしました。



[平成26年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20141231


[平成25年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20131231


[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230


[人物伝]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20140930


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