ミントの人物伝その70−1〔第610歩〕


この人のお兄さん、スミスはアメリカ海軍軍人で、
ペリー提督の「黒船」に乗って来日したそうですから
日本にも関連があるんですね。


ミントの人物伝(その70−1)


ロバート・エドワード・リー(1807-1870)
アメリカの軍人、教育者。


1807年にバージニア州のストラットフォードで生まれる。
父はアメリカ独立戦争の英雄、ヘンリー・リーだった。

1825年、リーはにニューヨーク州陸軍士官学校に入学、
4年後に次席で卒業し職業軍人となる。

1831年に結婚。
メアリーは合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンの孫娘である。

1832年に少尉
1836年に中尉
1838年に大尉に昇格する。


1846年から1848年にかけての米墨戦争アメリカ・メキシコ戦争)に従軍し
武勲を立てて
1852年に母校である陸軍士官学校の校長に任命された。
3年間校長を務めたあと、
1855年に中佐に昇格したリーは、その後の数年間をテキサス州で過ごした。

1859年には、バージニア州(現ウェストバージニア州)で発生した
奴隷制度に反対する過激派、ジョン・ブラウンによる暴動事件の鎮圧を指揮している。


アメリカでは19世紀に入ると、商工業中心に発達した北部と、
大農園の農業を中心とする南部との対立が顕著になってきた。

北部は23州で人口2200万人に対し、南部は11州で900万人(黒人350万人を含む)。
北部はイギリス製工業製品と競争するため保護貿易を主張し
南部は綿花の輸出を増やしたいので自由貿易を主張した。
また北部が連邦政府の権限拡大をめざしたが、南部は州の自治権の拡大を求めた。

そして最大の対立点となったのが
北部が奴隷制度に反対したことである。
北部は黒人を開放することで、労働者人口や製品の購買層が増えることを望んだが
南部としては、労働力として奴隷制度に依存しているので、これに承知できるはずがなかった。


1860年の大統領選挙で、奴隷制度拡大反対を掲げる共和党リンカ−ンが当選すると、
南部諸州の反発が強まり、12月に南部7州(のちに11州)が連邦離脱を決定する。

エイブラハム・リンカーン


1861年、リンカ−ンが大統領に就任。
それに対抗する形で南部諸州はアメリカ連合国を成立させ、
ジェファ−ソン・デ−ヴィスを大統領に選出した。
リンカ−ンは、南部諸州の分離独立を認めず、対立は決定的となった。
南部諸州は、綿花輸出先のイギリスと、
ナポレオン3世のフランスの支援を期待していたとされる。


リーは南北戦争直前には大佐だった。
故郷のバージニアは南部諸州に属していたが、個人的には奴隷制度に反対だった。

−いっそのこと南部の奴隷すべてを私の所有にしたい。
そうすれば私は戦争を避けるために、彼らをすべて自由人として解放するだろう−


リンカーン大統領はリーにアメリカ合衆国陸軍の司令官就任を要請した。
つまり北軍の司令官である。
だがリーは悩んだ末、これを断っている。


−私の家は代々合衆国の軍人だ。だがバージニアも愛している。
故郷を見捨てることはできない−


リーは南軍に身を投ずることにした。


(続く)


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[平成22年の記録]
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[人物伝]
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