ミントの人物伝その71〔第658歩〕

この人は言いました。
『卓球はチェスをしながら100m走をするようなものだ』と。


ミントの人物伝(その71)


荻村伊智朗(おぎむらいちろう、1932-1994)
卓球選手。
ー以下敬称略ー


静岡県出身。
進学校都立西高校に入学すると、すぐに卓球に夢中になった。
彼は小柄だったが敏捷性が人一倍優れていた。


その後は東京都立大学に入学するが、卓球部が弱かったため
自宅近くにある武蔵野卓球場に入りびたるようになる。
やがてより強い練習相手を求めて、日本大学に転学。


この頃荻村は、新たなラバーである「スポンジラバー」の可能性に着目する。
ーこのラバーは弾力性に優れている。
小柄な自分にとってパワーを補える武器になるかもしれないー


ただ「スポンジラバー」は、打てば確かにスピードは出るのだが
コントロールが定まらない欠点があった。
しかし荻村は猛練習によってこれを克服。
やがて「スポンジラバー」によって威力を増したドライブが
彼の大きな武器となってゆくのである。


1952年(昭和27年)、
第19回世界卓球選手権大会のボンベイ大会に日本は初出場をして
佐藤博治の男子シングル。
藤井則和・林忠明の男子ダブルス。
女子団体、
西村登美江・楢原静の女子ダブルス。
合計4種目で優勝するという快挙を達成する。


荻村は日本人の活躍を喜ぶとともに
自分も世界大会で活躍したい、と痛切に思った。


1953年(昭和28年)、荻村は全日本選手権男子に出場。
初出場でシングルス優勝を果たす。
荻村21歳。
いよいよ次は世界だ、と思った。


だが、ロンドン大会に出場するには
渡航費用80万円を自己負担しなければならない。
かといって荻村の家にはその余裕はなかった。


あきらめなくてはならないのか、と思ったとき
武蔵野卓球場の仲間たちが街頭募金を行い、またスポンサーを募って
渡航費用を工面してくれたという。


ー応援してくれたみんなのためにも頑張らねばー


荻村は日本を発ちイギリスに向かった。


1954年(昭和29年)のロンドン大会では、
地元イギリス人の反日感情が渦巻く中での戦いだったが
荻村は順調に勝ち進む。
そしてスウェーデン選手を決勝で破り、ついに優勝する!
一躍彼は国民的ヒーローとなった。


1956年(昭和31年)の東京で行われた世界卓球選手権でも優勝した。


荻村は2度、シングルスの世界チャンピオンになったのである。


またダブルスや団体でも優勝があるので、
彼は世界卓球で合計12個の金メダルを獲得している。
これはおそらく日本人選手の最高記録だろう。


その後荻村は現役を引退し、日本卓球協会常任理事となる。


ところでこの頃、政治的な理由から
中国は卓球の国際大会に参加していない。


荻村は考えた。
ー中国は卓球の競技人口が多く、強い選手も沢山いる。
中国ぬきの国際大会は考えられない。是非とも復帰させるべきだー


後藤諟二会長と共に1970年に訪中。
周恩来とも会談し、
1971年(昭和46年)の世界卓球選手権名古屋大会への中国復帰に尽力した。


1987年(昭和62年)には第3代国際卓球連盟(ITTF)会長に就任。
これは現在に至るまで
日本生まれ以外のスポーツで、日本人が会長に就任した唯一のケースである。


ー卓球はテーブル、ラケット、ピンポン球があればできる。
卓球を通じて世界中の人々が交流できればこんなにいいことはない。
中国の次は朝鮮半島だー


朝鮮半島は「大韓民国」と「朝鮮民主主義人民共和国」の二つの国に分断されており
統一チームを結成することなど夢の話と考えられていた。


1991年(平成3年)春、千葉幕張で開かれた第41回世界卓球選手権大会に
荻村は驚異的な粘りを発揮して、「統一コリア」チームの参加を実現させる。
この時彼は、韓国に20回、北朝鮮に15回も足を運んで
夢を現実のものとしたという。


統一コリアチームは女子の団体戦で中国を破って優勝する。
表彰式では朝鮮半島をデザインした青い旗が掲げられ、「アリラン」の大合唱となった。
一瞬とはいえ、荻村にとっても忘れられない体験だった。


ITTF会長と同時に兼任していた日本オリンピック委員会JOC)国際委員長として
のちの長野冬季オリンピック招致に尽力している。


また彼は、どちらかというと暗いイメージがある卓球の
イメージアップを図ろうと
青い卓球台の導入、ラージボール卓球の普及にも尽力した。


1994年(平成6年)12月4日、肺がんにて死去。
享年62歳。
3年後に世界卓球殿堂入りを果たす。


人々は荻村のことを「ミスター卓球」「ピンポンさん」と呼んで親しんだ。
彼は卓球を通じて世界の人々を結び付けようと努力した
平和外交官だったといえるだろう。


ジャパンオープン卓球選手権大会は、
荻村の死後に、荻村杯国際卓球選手権大会と改称され、
国際卓球連盟公認プロツアー公式戦として開催されている。


(参考文献)
Wikipedia
「ピンポン外交で世界を変えようとした男」
「知ってるつもり」他
画像はWikipedia、Web から借用いたしました。



[平成27年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20151231


[平成26年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20141231


[平成25年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20131231


[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230


[人物伝]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20140930


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