ミントの人物伝その74−1〔第676歩〕

この人があと15年、いや10年長生きしていたら
歴史は変わったかもです。


ミントの人物伝(その74−1)


豊臣秀長(1540-1591)

豊臣秀吉の異父弟、大和大納言


1540年(天文9年)、尾張国愛知郡中村に生まれる。
幼名は小竹。長じて小一郎。
彼が幼少時に、兄の日吉が家を飛び出したため
もともと兄との面識は少なかったようだ。


母親と農作業をする毎日だったが
ある日突然、日吉が家に戻った。
15年ぶりくらいだろうか。
日吉は小一郎に言った。

「小一郎、わしの仕事を手伝ってくれ。
わしは信頼のできる家来が欲しいんだ」

日吉は今では木下藤吉郎と名乗り
武士として織田信長にとりたてられているという。

百姓をやめて武士になるのは不安もあったが
今のままでも将来は見通せない。
小一郎は兄についてゆくことを決心した。


少し時が流れ
1573年(天正元年)、藤吉郎は浅井氏を滅ぼした功により長浜城主となると
羽柴秀吉と名乗った。

小一郎は、秀吉と丹羽長秀または織田信長から一字ずつ貰って
『秀長』と名乗るようになる。

1575年(天正3年)には、羽柴の名字を与えられ羽柴秀長となる。
ただ主君である信長の前では『長秀』と名乗っていたらしい。
秀長らしいと思う。


秀長は実務や軍事でも有能だったため、いまや秀吉に全面的に信頼されていた。
実際、行動力抜群の秀吉と、思慮深く気配りができる秀長は絶妙のコンビだった。

また秀長は、家来の面倒をよく見たため慕われていたようだ。
この頃秀長に仕えた家来に藤堂高虎がいる。
高虎は生涯に、主君を変えること7回に及んだが、そのたびに加増を繰り返し
やがては伊勢津24万3千石を領する大大名となる面白い人物だ。
築城の名人としても有名である。
高虎は「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と言ったと伝えられる。
つまらぬ主君にはすぐに見切りをつけたその高虎でさえ
秀長には心酔し、秀長の最後まで忠実に仕え続けたのである。


秀吉が信長の命令により中国攻めの総司令官となると
1577年(天正5年)、
秀長は秀吉に従い播磨国に赴き、その後は但馬攻めに参戦した。
竹田城が落城すると、城代に任命される。


1578年(天正6年)、
東播磨地域の三木城に拠る別所長治が反旗を翻す。
翌年、秀長は三木城への補給を断つため丹生山を襲撃し、補給路を断つことに成功した。
これは三木の干殺しと呼ばれた作戦だ。
1580年(天正8年)1月に別所一族が切腹し、三木合戦が終戦する。

同年、秀吉軍が山名祐豊を滅ぼし但馬国平定が完了する。
秀長は出石城主となる。

1581年(天正9年)夏、秀吉は吉川経家が守る鳥取城を取り囲み、
またもや兵糧攻めが開始される。
この作戦は三木城以上に徹底しており、鳥取の渇え(かつえ)殺しと呼ばれた。
3ヶ月が過ぎると城内は飢餓地獄となった。

秀長は城を包囲する陣の一つを指揮していた。
ー戦国の世とはいえ、あまりにむごいー

同年10月、経家の切腹により終戦となる。


三木城や鳥取城の兵糧攻めは、たとえそれが味方の損失を防ぐためとしても
非人道的な作戦だ。
おそらく秀吉が黒田孝高(官兵衛)と立てた作戦ではないだろうか。


1582年6月21日(天正10年6月2日)、織田信長明智光秀による謀叛で殺される。
本能寺の変だ。

秀吉軍はすぐさま戦闘状態であった毛利氏と和睦、清水宗治切腹させ、
畿内へ撤退を開始する。
この中国大返しに従って、秀長も山崎の戦いに参戦する。


そして光秀に勝利した秀吉は
信長の後継者として天下取りに突き進んでゆく。


(続く)


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