今回は少しややこしいです。
読み飛ばしてもかまいません。
1350年(正平5年)、観応の擾乱と呼ばれる足利幕府の内紛で
足利尊氏(あしかがたかうじ)とその弟足利直義(あしかがただよし)とが争う事態となる。
以下、状況を箇条書きすると
・直義の養子である足利直冬(あしかがただふゆ)が尊氏の追討を受け、九州へ入る。
・筑前、筑後の守護少弐頼尚(しょうによりひさ)が直冬を支援する。
・直冬・頼尚連合軍は大宰府にて九州探題一色範氏に戦いをいどむ。
かくして九州は北朝方、直冬、南朝方、と三勢力が鼎立(ていりつ)し、
複雑な情勢となる。
・1351年(正平6年)、月隈・金隈(つきぐま・かねのくま)の戦いで
直冬・頼尚連合軍は一色氏を破る。
<直冬・頼尚 対 一色>
このため一色範氏は九州探題を解任されてしまう。
この頃の直冬には九州の多くの武士がなびきつつあった。
・だが、1352年(正平7年)、中央で直義が殺害されたため
直冬は九州で孤立し、中国長門に遁走してしまう。
いつかは九州探題の一色とは戦わねばならぬ。
懐良と武光は頼尚に協力し、戦うことを決める。
これは九州南朝と九州北朝との戦いと見てもいい。
いよいよ武光の活躍が始まる。
1353年(正平8年)2月、
懐良と武光は、筑紫の針摺原(はりすりばる)の戦いにて
一色軍と激突し、一色範氏・直氏父子を敗走させる。<懐良・菊池・少弐 対 一色>
翌1354年(正平9年)、懐良と武光は少弐軍を率いて
豊後の大友氏泰(おおともうじやす)を破る。
<懐良・菊池・少弐 対 大友>
1358年(正平13年)1月、
父範氏に代わって探題となった一色直氏が挑んできたが
武光はまたもやこれを撃退。
<懐良・菊池・ 対 一色>
さらには同年11月、日向の畠山直顕(はたけやまただあき)をも破って、
武光は九州の北朝勢力をほぼ一掃するのである。
<懐良・菊池・少弐・大友 対 畠山>
ところがこののち、
南朝方に屈していた少弐・大友氏が北朝方に転じたため、
懐良、武光ら南朝方は、これと戦うことを決意する。
大きな戦いの火ぶたが切られようとしていた。
(続く)
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